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映画『ブレードランナー ファイナル・カット』はSF映画の「金字塔」の完成版となりました!!

 

この映画『ブレードランナー ファイナル・カット』は、SF映画の金字塔と言われた『ブレードランナー』(通常版)に、初公開から25年を迎えた2007年にリドリー・スコット監督自らが再編集とデジタル修正を施してよみがえらせた「ファイナルカット」版です。

そこは、1982年から見た、酸性雨で荒廃した2019年のロサンゼルスを舞台にしています。人間にそっくりな外見を持つ人造人間「レプリカント」たちが植民地惑星から逃亡してきました。レプリカント専門の捜査官「ブレードランナー」のデッカードハリソン・フォード)が追跡を開始します。

日本でも2007年11月に劇場公開され、2017年10月にも続編『ブレードランナー 2049』公開を記念して10年ぶりに劇場公開されました。

目次

 

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1.3編の『ブレードランナー

映画にはさまざまな「バージョン違い」を、さまざまにして多様な存在理由でもつに至った作品が多くあります。

例えば『ゾンビ』のような、公開エリアによって権利保持者が違ったため、各々独自の編集が施されたケースもあれば、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズや『アバター』のように、劇場公開版とは別の価値を持つものとして、DVDやBlu-rayなど制約のないメディアで長時間版を発表する場合もありました。

ブレードランナー』もそれらのように、いくつもの別バージョンが存在する作品として有名です。しかしながら、先に挙げた作品とは「発生の理由」がまったく異なっています。

 

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2.バージョン違いが生まれたわけ

それは最初に劇場公開されたものが「監督の意図を忠実に表した作品ではなかった」というのが最大の理由です。

普通、映画の完成させる最終の編集権は、作品を手がけた「監督」にあると思いますが、その多くは作品の「製作者」が握っていて、監督が望む形で完成へと至らないケースがあるそうです。

ブレードランナー』もまさしくそのひとつで、「通常版」は、製作者の権利行使によって完成され、1982年に劇場公開されたものなのです。

監督のリドリー・スコットは、当然、それに納得いかなかったのが、純美にして荘厳な映像スタイルを自作で展開させ「ビジュアリスト」の名を欲しいままにする希代の名匠で、完璧主義の鬼才が、自らの意図と異なるものに寛容であるはずがありません。

もともと『ブレードランナー』は、リドリーの意図に忠実に編集されていました。しかしながら、製作側が完成前にテスト試写をおこない、参加者にアンケートをとったところ、以下のような意見が寄せられてしまいました。

「映画に出てくる単語や用語が難しい。」「レプリカントって何?」 「そもそもブレードランナーって何?」

「ラストが暗すぎる。デッカードとレイチェル(ショーン・ヤング)は、あの後どうなった?」

こうした意見に製作側が戦々恐々となったのは言うまでもありません。そして収益に響いては困るとばかりに、編集に修正を加えたのでした。

「用語が難しい」という問題には、劇中にわかりやすいナレーションを入れることで対応する、そして「ラストが暗い」には、「レイチェルには、レプリカントが4年しか生きられない限られた寿命しかないのを特別バージョンで寿命の制限を外してあること」「ふたりは生き延びて仲良く暮らしました」とでも言いたげなハッピーエンド・シーンを追加しました。

しかし、今となっては考えられないことかもしれませんが、こうした製作側の配慮もむなしく、『ブレードランナー』はヒットには至らなかったのです。

何が問題だったのかというと、それは懸念された「内容の難解さや暗さ」ではなく、ダークなセンスこそ光る本作を「SFアクション劇」で売ろうとした製作側の大きな宣伝ミスだったのです。

その退廃的な未来図像や哲学的なストーリーが、皮肉にも、目の利いた映画ファンから絶賛されて、『ブレードランナー』は年を追うごとに注目を集め、マスターピースとしてその名を高めていくのでした。

 

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3.『ディレクターズ・カット/最終版』(1992年)の誕生

リドリー・スコット監督は、商業性を優先した製作側に、作品を曲解されてしまったとは考えていました。作品の評価が高まるにつれ、彼は今そこにある『ブレードランナー』が、自分の意図通りのものでないことにジレンマをつのらせたのです。

そして「いつか自分の『ブレードランナー』を作る」と、来るべき機会をじっと待っていたのでした。そして、ついにその祈願が果たされるときがやってきます。

1991年、ワーナー・ブラザースが同作のファンの需要に応え、「通常版」の前のバージョンの公開を局地的に展開していました。それは、リドリーの意向に沿った当初の編集版です。

それに対し、リドリーは、「あの編集バージョンはあくまで粗編集で、未完成のものだ。公開を承認することはできない。これはビジネスの問題じゃなくて芸術の問題だ」と、公開にストップをかけたのでした。そしてワーナーに対し、ある代案を呈示しました。

「監督である私の意図にしたがい、新たに編集したものならば公開してもいい」。この代案が受け入れられ、編集権はリドリーに譲渡される形となりました。そしてリドリーは自分の思い通りの、新たな編集による『ブレードランナー』を発表することになりました。それが『ディレクターズ・カット/最終版』です。

 

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4.「通常版」と「ディレクターズ・カット」の比較

監督の意図に忠実な『ディレクターズ・カット/最終版』は、「通常版」に入れられたナレーションをすべて取り払い、そして最後に追加されたハッピーエンド・シーンも削除したバージョンです。

そこには監督の「混沌とした未来像をありのままに受け止めてほしい」という演出プランが息づいています。

こうした点にこだわりながら、改めて両バージョンを見比べてますと、ナレーションのない『ディレクターズ・カット/最終版』は、耳からくる情報収集で聴覚を奪われないぶん、視覚を集中して働かせられるため、映像が放つインパクトをより強く受け取ることができるのです。

公開当時は、革命的で前代未聞といわれたデッドテックな未来像。その視覚的ショックを、監督の思う通りに実感できるというわけです。

さらにリドリーは『ディレクターズ・カット/最終版』に新たにショットを付け加えることで、観客がこれまで抱いてきた『ブレードランナー』の固定観念を覆すことに成功しています。それが「森を駆けるユニコーン(一角獣)」のイメージ・シーンです。

デッカードが見るユニコーンの映像、それは彼の同僚ガフ(エドワード・ジェームズ・オルモス)が捜索現場に残した「折り紙のユニコーン」と「夢」として重なり合うように挿入されるのです。

デッカードの脳内イメージを第三者であるガフが知っているということに、「デッカード自身もレプリカントなのでは?」という疑念を観る者に抱かせてきます。そしてその疑念こそが『ディレクターズ・カット/最終版』の、もうひとつの変更点である「ハッピーエンドの否定」へとリンクしていくのです。

「それでは『通常版』は、監督の意図と違うからダメなのか?」と訊かれれば、そうではなく、「通常版」固有のナレーションは、1940?50年代に量産された「フィルム・ノワール(犯罪映画)」や「ハードボイルド小説」のスタイルを彷彿とさせます。

こう言った古来の語り口を介することで、『ブレードランナー』もまた「孤独な主人公が犯罪者を追う」古典的な物語であることを認識させてくれるのです。

そういう観点からすると「通常版」は「未来版フィルム・ノワール」として独自の価値を持つものであり、監督が思うほど『ディレクターズ・カット/最終版』に劣るものでは決してないでしょう。

 

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5.さらに作品を極めた本作「ファイナル・カット版」(2007年)

リドリーは紆余曲折を経て、自分の意向に沿った『ブレードランナー』を世に出すことに成功しましたが、それだけでは満足しないのがアーティストの性(さが)なのでしょう。「さらに極めたものを作りたい」という思いは、完璧主義者としての彼の奥底に深く根を張っていました。

そうした自身の思いと、多くのファンの作品に対する支持はワーナー・ブラザースを動かしました。同社は『ブレードランナー』公開から25周年を迎えるにあたり、改めて同作の権利契約を結び、「究極」ともいえる「ファイナル・カット版」の製作にゴーサインを出しました。

「ファイナル・カット版」は、基本的には前述の『ディレクターズ・カット/最終版』をアップデートしたものです。したがって「通常版」→「『ディレクターズ・カット/最終版』に見られたような大きな違いはなく、次のようにディテールの修正が主だった変更点です。

 

1)撮影・編集ミスによる矛盾の修正

撮影ミスや編集ミスでの、カットごとに違うものが映し出されるシーン(不統一な看板の文字など)や、または矛盾を生じるセリフの修正などが徹底しておこなわれています。

特に代表的なのは、ブライアント(M・エメット・ウォルシュ)がレプリカントに言及するセリフで「(6体の逃亡したレプリカントのうち)1匹は死んだ」としゃべっていたものを、「2匹が死んだ」と変えている場面です。これはデッカードが追う残り4体のレプリカント(ロイ、ゾーラ、リオン、プリス)の数に合致させるための変更です。

また、修正のために、新たに映像素材を撮影したシーンもあります。デッカードに撃たれたゾーラが倒れるシーンで、スタントの代役が如実に分かるミスショットがありますが、ゾーラ役のジョアンナ・キャシディを招いて撮ったアップショットを代役にリプレイスメント(交換)することで解決へと導いています。

また人造の蛇をめぐってデッカードがアブドルと話すシーンでの、声と口の動きが一致していない問題点には、ハリソン・フォードの実子ベンジャミン・フォード(お父さんそっくり!)の口もとを合成し、同様に解決されています。

 

2)特殊効果シーンの一部変更および修正

オプチカル(光学)による合成ショットのブレや、シーンによって左右反転するデッカードの頬傷メイク、あるいはスピナーが浮上するさいに見える、吊り上げるためのワイヤーなど、ミスや製作当時の技術的な限界を露呈した点がデジタル処理で修正されています。

またバックプレート(背景画像)が大きく入れ替えられている部分もあり、たとえばロイの死の直後にハトが飛び去るショットは、前カットとの連続性を持たせるために晴天から雨天へとレタッチされ、下部分に写る建造物も新たにデジタル・ペイントされて、違和感をなくしています。

 

3)未公開シーンの挿入

デッカードがゾーラを訪ねるシークエンスにおいて、繁華街に登場するホッケーマスクのダンサーなど、未公開だったショットが追加されています。またユニコーンのシーンにも1ショット追加され、それにともないデッカードのアップにユニコーンのショットがインサートされる編集処理となり、ユニコーンのシーンはディゾルブ(オーバーラップ)でなくなりました。

 

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6.すべてのバージョンにおいて『ブレードランナー

1982年の『ブレードランナー』初公開から四半世紀の間に、映画の世界には大きな変革が及んでいます。「デジタル技術」の導入により、そのメイキング・プロセスや作品の仕上がりに高いクオリティが与えられたのです。

監督とスタッフは『ファイナル・カット版』作成に際して、オリジナルの本編シーン35mmネガ、そして視覚効果シーンの65mmと70mmオリジナルネガをスキャンしてデジタルデータに変換し、すべての編集や修正をコンピュータベースでおこなっています。

その結果、同バージョンは『ディレクターズ・カット/最終版』と比較し、あるいは「通常版」と比較しても、とにかく映像の美しさという点で勝っています。

デジタルによる高解像度スキャンによって、これまでの別バージョンに較べて画面の隅々までが明瞭に見えるようになったし、照明効果の暗かった場面の光度や輝度をデジタル処理で上げることで、暗部に隠れた被写体の可視化に『ファイナル・カット版』は成功しています。

また映像面だけでなく、サウンドにおいても微細に加工が施されています。セリフ、効果音、スコアなどのそれぞれのトラックからノイズをデジタルで消去し、それらをリミックスして響きのいい音を提供しています。

またナレーションを排したために、ところどころで音の隙間が出来てしまう場面においても。スピナー飛行時の通信ノイズや街の雑踏など新たなサウンドエフェクトで補っています。

リドリー・スコット監督の執念と、こうした丹念な修正作業によって、『ファイナル・カット版』は『ブレードランナー』の「完成型」といえるものに仕上がりました。とはいえ、デジタルという態勢下で加工された『ファイナル・カット版』に対し、あくまでフィルムベースで存在する「通常版」「ディレクターズ・カット/完全版」の「映画らしい質感」を賞賛する者も少なくありません。

作家性を重んじる立場では「ファイナル・カット版」に感動しつつも、「最初に劇場公開されたものこそオリジナル」という思いもあるので、それぞれのバージョンを観るそれぞれの者に心を揺らします。したがって、どの『ブレードランナー』を支持するかは、観る者の嗜好によって一定ではないのでしょう。

しかし、誰がどのバージョンに触れたとしても、やはり『ブレードランナー』という作品そのものが持つ「魅力」と「偉大さ」を、改めてすべての人が感じるに違いありません。

 

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 7.予想が外れた5つのこと

リドリー・スコット監督による映画『ブレードランナー』が公開されたのは1982年で、。その舞台となったのは2019年11月のロサンゼルスでした。

1982年の観客が見たのは、暗く、汚染された地球のディストピア的な未来の姿でした。ハリソン・フォードが演じる「ブレードランナー」に与えられた任務は、「レプリカント」と呼ばれる人造人間を探し出し、彼らを殺す、あるいは引退させることでした。

2019年について映画で予想されたいくつかのことは、ほぼ正しかったのですが、地球環境は、映画で描かれているほどには悪化していないとはいえ、気候変動はますます差し迫った問題となっています。

ロボットは我々の生活において、かつてないほど重要な役割を果たしていて、そして音声アシスタントはかなり一般的になっています。しかし、1982年の映画で予想されたすべてのことが現実となったわけではありません。

ブレードランナー』が描いた2019年の世界について、予想が外れた5つのことについて見てみます。

 

1)空飛ぶ車

いくつかの企業が空飛ぶ車空飛ぶタクシーと呼ばれる乗り物のプロトタイプを製造していますが、それはブレードランナーに登場したものよりもずっと劣ったものです。自動運転車の方は、ここにきて大きな進歩が見られます。

 

2)テスト

いずれは人間かどうか見分けるためにテストが必要になるかもしれません。最近ではAI(人工知能)に進歩が見られるものの、まだレプリカントは誕生していません。現代のロボットが人間に間違われるということも、まずありえません。

 

3)喫煙

映画の中ではタバコが室内で普通に吸われていました。アメリカの多くの州では、屋内の公共の場での喫煙が禁止、あるいは制限されています。ブレードランナーの舞台となったカリフォルニアでもそで、映画では、電子タバコの登場が予想できなかったようです。

 

4)他の星の植民地

映画では人類は他の星を植民地化していました。イーロン・マスクなどテック界の実力者たちの願いにもかかわらず、人類によった他の星への移住が実現するのは、かなり先になりそうです。

 

5)ポラロイド写真

映画の中では、デジタルの写真は存在していず、ポラロイド写真が重要な役割を果たしています。ポラロイドは今も存在しますが、撮ったその場で楽しむことが主な利用法であり、写真を撮影して保存するために利用されることはほとんどありません。


8.まとめ

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SF映画は、本作のように1986年から2019年へと想定された時代が過ぎれば、想定した未来と現実の差が如実に表れて興趣をそいでしまい、時代というフィルターをかけて観なければなりません。

さらに、ロボットやサイボーグの進化を題材にしたものもありましたが、本作ほど人間に近づけたものはなく、DNA操作によった「レプリカント」は2019年としては先行しすぎていて話に乗り切れないところもあります。しかしながら、その映像美とともに着眼点、深い考察は「SFの金字塔の完成版」の名に恥じないものを確かに感じさせます。

なにはともあれ、現実が、この作品で描かれているような汚らしい未来にならなかった先人の賢さに感謝しなければなりません。