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『西国三十三所』車で巡礼、古希まじかCOPDオジサンの旅!【紀行遍2・二、三、六、七番】

西国三十三所巡礼の二日目は、和歌山県の残り2寺と奈良県の2寺となりました。

先般の青岸渡寺で「西国三十三所草創一三〇〇年」記念「和み、和らぐ。和歌山からはじまる旅。」のスタンプラリーを勧められ、記念品目当ての12月期限にせかされて、まずは和歌山の残り2寺に参拝して記念品の日本手拭をゲットし、帰路に奈良県の古刹2寺にお参りしました。

 

 目次

 


第二番 紀三井寺

仁王門(楼門)

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寺域は紀ノ川河口平野の南部にある名草山(なくさやま、標高228.7m)の西側中腹(標高50m辺り)にあって、境内から和歌浦湾を一望のもとに収めることができます。

山内に涌く三井水(さんせいすい:吉祥水・清浄水・楊柳水)は紀三井寺の名の由来となって、いずれも水源には慶安3年(1650年)の年記とそれぞれの名水の名を刻銘した砂岩製の水槽があります。

これらの水槽は紀州藩徳川頼宣の命により設けられたものであって、三井水は1922年(大正11年)に昭和天皇和歌浦に投宿した際に調理用水として献上されたほか、1985年(昭和60年)3月に環境庁(現、環境省)が選定した「名水百選」に選ばれています。

境内は観桜の名所として名高く、日本さくら名所100選にも選ばれています。また本堂向かって左の桜の木が和歌山地方気象台ソメイヨシノの標本木に指定されており、近畿地方では最も早く開花することが通例であることから、「近畿地方に春を呼ぶ寺」としても知られています。


1.アクセス

たいていは大阪方面からでしょう、阪神高速または近畿自動車道阪和自動車道利用し和歌山ICで下りて約9kmです(花山西交差を左折して4kmを右折、小雑賀交差を左折して南下か、宮街道を和歌山市内方向へ進みJRの高架下をくぐりすぐ先の田中町交差点を左折し国体道路を約4km南下します)。
ETC車は、和歌山南ICで下りて小雑賀経由、約5.5km。和歌山ICからより10分程短縮になります。


1)駐車場

紀三井寺が用意している参拝者駐車場は裏門前の住宅街にあり、分かりづらいうえ、周辺道路が狭いため繁忙期には混雑するそうです。

裏門脇に設営された受付所で、駐車場代(300円)と入山料(大人なら200円)を払って入場しますが、ここからだと正面楼門の石段からとは違う経路になります。ただアップダウンがパスできるわけではなく、もし身障者や足が悪い方の場合は、料金を払えば(700円)山の上の駐車場に駐めることができるので、受付所に申し出るといいでしょう。

231段の石段があるとは言え、境内はそれほど広大というわけではないので、参拝所要時間は1時間前後であり、門前参道のコインパーキングを含めて、予定滞在時間に合わせた駐車場選びをするといいでしょう。


2)山上駐車場について

山の上の駐車場をめざし突っ込んで行こうとすると、参拝者駐車場の前に料金所があって、駐車料700円と1人200円の入山料をお支払いするシステムになっていて、特に申告する訳でもありませんでした。

ほんの数分ながら結構な急こう配、すれ違い困難な隘路ですが、本堂の真下に到着します。

訪問時は閉鎖されていましたが、障碍者用なのか、限られたスペースとエレベーターがあり、本堂のレベルまで上がれるようになっていて、身体の不自由な方にはありがたい設備でしょう。


3)境内図

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2.縁起

唐から渡来した為光(いこう)上人は行脚の途中、たまたまこの地に泊まったが、その夜半に名草山山頂付近から発する霊光を見たので、翌日、山に登り、そこで金色に輝く千手観音像を感得したといいます。為光上人は「この地こそは観音慈悲の霊場である」とし、自ら十一面観世音菩薩を一刀三礼で刻み、これを祀る堂宇を光仁天皇宝亀元年(770年)に建立しました。これが紀三井寺の創始と伝えられています。

その後、歴代天皇行幸があったようで、後白河法皇は当寺を勅願所と定めた、といわれています。

名草山に三つの霊泉(清浄水、楊柳水、吉祥水)があることから「紀三井山」という山号になったといわれますが、『紀伊風土記』は付近の旧地名「毛見(けみ)」が転じたものと伝えています。


3.みどころ

1)楼門

紀三井寺の境内入口に当たる「楼門」は堂々とした立派なもので、著名な寺の山門であることを実感させられます。
この「楼門」は永正6年(1509年)に再建されたものといわれていて、重要文化財に指定されています。


2)結縁坂

「楼門」から先は石段になっていますが、かつてはここが坂であり、「結縁坂」といわれていました。

「楼門」の傍にこの坂にまつわるエピソードが書かれた説明板があって、大略次のように書かれています。

「紀の国屋文左衛門は親孝行であった。ある日母を背負って紀三井寺に参詣、この坂を上ったが途中で草履の鼻緒が切れた。そこに玉津島神社宮司の娘が通りかかり、鼻緒をすげ替えたのが縁となり、二人は結ばれたという。」

これが、この坂を「結縁坂」と呼ぶようになった由来といわれていて、この話には玉津島神社宮司の出資金によるミカン船で紀の国屋文左衛門は大儲けしたというオマケまでついています。

 

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3)三井水

紀三井寺の名称は、前述のように「紀州にある三つの井戸のある寺」に由来しているといい、三つの井戸を「三井水」と呼んでいます。

その内の一つ「清浄水」が石段の途中にあり、石垣の間から水がチョロチョロと流れ落ちています。

「清浄水」から数十メートル南側に「三井水」の一つである「楊柳水」、北側のかなり離れた場所に、もう一つの「三井水」である「吉祥水」があります。

「三井水」は昭和60年に日本名水百選の一つに選ばれていて、「清浄水」という名称は「一切衆生の罪垢を洗除して清浄なるを得しむ為」に由来しているということであり、衛生的に清浄という意味ではありません。

 

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4)標本木

紀三井寺は桜の名所としても有名であり、季節には花見に訪れる人で混み合います。

本堂の直ぐ前、向かって左側に和歌山地方気象台季節観測用の「ソメイヨシノ標本木」(下の写真)があって、桜の開花宣言の基準となる木となっています。

 

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5)秘仏開帳

今年で、開創1250年を記念し、50年に一度開帳される秘仏本尊・十一面観世音菩薩像と、秘仏千手観世音菩薩像が下記の期間特別公開されます。

2020年3月18日~6月28日・2020年9月20日~12月20日

しかしながら、2020年春の御開帳の途中、新型コロナウイルス禍にかかる
緊急事態宣言を受けて、52日間停止されました。

これを翌年に行ってもらえないかとの声が寄せられており、そこで、この度、信徒総代会の決定を受けて、中断期間をそのまま翌年に移行し、2021年(令和3年)4月8日~5月29日に、紀三井寺秘仏御本尊《よみがえり御開帳》として執行されることになりました。

 

第三番 粉河

大門

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和歌山県紀の川市にある「粉河寺」は、奈良時代の創建といわれる古刹です。鎌倉時代には境内に伽藍が建ち並び栄えましたが、豊臣秀吉紀州攻めによってほとんどが焼失しました。
その後、江戸時代中期に、紀州徳川家の外護や信徒の寄進などによって大門や本堂、千手堂などの諸堂が再建され現在に至っています。西国三十三ヶ所の中では最大級の本堂と、国指定名勝の枯山水庭園との調和が見事な粉河寺です。

 

1.アクセス

名古屋・京都・奈良方面からは、京奈和道自動車道、紀の川東インターから約2km(約5分)

大坂方面からは、阪和自動車道 上之郷ICまたは和歌山ICからいずれも約35分

最寄り駅はJR和歌山線粉河駅。「とんまか通り」と呼ばれる典型的な門前町を駅から山門へと形成しています。駅から約800メートルの道程で徒歩約15分です。朱塗りの楼門が見えてきます。


1)駐車場

ゲートや料金所はなく、手前の蟹井土産物で料金500円を支払います。

 

2)境内図

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2.縁起

宝亀元年(770年)のある日、猟師の大伴孔子古(くじこ)が山中で霊光を発する場所を見ました。霊光を見た孔子古はこの地が霊地に違いないと考え、ここに小堂を建立したと伝えられています。

この小堂に童男大士が訪れて、七日の間、堂に籠もって仏像を刻み、これを本尊にするようにと孔子古に与えたといわれ、翌日、童男大士が去ると、その仏像は金色に輝く観世音菩薩になったといいます。孔子古は童男大士こそ観世音の化身と考え、以後、殺生をやめ供養礼拝したといわれ、これが粉河寺の創始と伝えられています。

この縁起は国宝に指定されている「粉河寺縁起」という紙本著色絵巻に描かれていますが、原本は京都国立博物館に寄託されているようであり、粉河寺にはその複製品が保存されています。


3.みどころ

1)大門

大門規模の大きい三間楼門で、和歌山県では、高野山根来寺に次ぐ威容を誇ります。宝永四年(1706年)総欅(けやき)造り。金剛力士は仏師春日の作と云われ、尊像の用材は桂の巨木です。【重要文化財指定】

 

2)中門

中門三間二戸の桜門として標準的な規模をもち、軒まわりまで良質の欅材で繊細な建物に仕上げられています。重要文化財指定。

 

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3)粉河寺庭園

粉河寺庭園本堂の前庭とその下の広場との高低差を利用して作られた、日本庭園の中でも先例のない石組みの庭園です。
雄大な本堂を本堂下の広場から仰ぎ見たときの前景でもある、珍しい様式の庭園です。

国指定名勝。

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4)本堂

本堂8世紀(770年)の創建より、数度の造営と改造を繰り返し、現存の当本堂は享保5年(1720年)に再建されました。
江戸時代中期の欅材による代表的建築で、西国三十三ヶ所の中で最大で、他に類例を見ない特異な形態で、一重屋根の礼堂と二重屋根の正堂とが結合した構成を持つ複合仏堂の形式です。重要文化財指定。

 

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第六番 壷阪寺

仁王門

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当寺の本尊は眼病に霊験のある仏として昔から信仰され、元正、一条、桓武天皇をはじめ眼病平癒を祈願する人は多かったとされていますが、特に、近年当寺が眼病患者を救う観音を祀る寺として有名になったのは、明治時代に失明回復祈願にまつわるお里・沢市の夫婦愛を描いた浄瑠璃、壺阪霊験記が世間に共感をよんだことによるといわれています。

 


1.アクセス

大阪方面からは、阪和自動車道で、美原JCTより南阪奈道路 または、西名阪自動車道で柏原I.C下車、国道165号線より県道御所香芝線(山麓線)太田交差点を左折高田バイパスで橿原市内169号線へ、橿原市内より約15分

京都方面からは、国道24号線南下、橿原市国道169号線へ、橿原市内より約15分

名古屋方面からは、名阪国道針I.C下車、国道369号線南下、国道165号線~169号線へ(看板あり)


1)駐車場

午前8時30分~午後5時まで 年中無休 普通車500円


2)境内図

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2.縁起

壷阪山に庵を結んでいた弁基上人は水晶の壷を愛でていたが、大宝3年(703年)、その壷の中に千手観音像を感得したといいます。弁基上人はその姿を刻み、像を庵に安置したとされており、これがこの寺の創始と伝えられています。壺阪の名もこれに由来しているとのこと。

元正天皇はこれを知り、養老元年(717年)に八角殿を建て、ここに壷と観音像を安置し、南法華寺の名を与えました。
法華寺平安時代に全盛期を迎え、36堂60坊の大伽藍が造営されたと伝えられています。その後、数度の大火に遭遇し諸堂が焼失しました。現在の諸堂は室町時代に再建されたものが基になっているようです。

 


3.みどころ

境内図の番号とリンクさせています。

①天竺渡来大観音石像

全長20m、全重量1200tあります。
天竺渡来大観音石像は、インドハンセン病救済事業のご縁でインドからご招来したものです。 インド国民の協力と南インドカルカラの三億年前の古石がインド政府や様々な人の支援で提供され、延べ7万人のインドの石工が参加してすべて手造りで製作されました。

20mの巨岩は動かすことも、運ぶことも不可能なので66個に分割して彫刻し、日本に運ばれて組み立てられました。 この巨岩を支える土台は深く基礎岩盤にまで掘り下げられて、数万巻の写経と土台石が埋納されています。 また、胎内には数万巻の写経と胎内石が納められ、66個の石が1本の巨石となっています。

この大観音石像はインドの文化勲章受章者シェノイ氏及びその一門によって製作されたもので昭和58年3月12日開眼法要が営まれました。

 

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②天竺渡来大涅槃石像

平成11年に安置され、全長8mあります。
大観音石像と同じく、インドにおける奉仕事業のご縁で始まった国際交流・石彫事業の一環として製作されました。

涅槃像はすべての教えを説き終え、入滅せんとする釈迦の姿を顕しています。釈迦の最後の説法は「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」と、自らを灯明とし、自らをよりどころとし、法を灯明し、法をよりどころとすることを説かれました。
釈迦がいる、いないにかかわらず自分を頼りとし、正しい教えを頼りとすることを意味しています。

 

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⑥仁王門

建暦2年(1212)建立で、貞慶解脱上人が建立に係ったと伝わっています。
室町期と安土桃山期に大修理を加え、昭和には解体修理を行いましたが、平成10年の台風により屋根が半壊したので、平成15年壷阪寺開創1300年を期して、防災上の見地から建立場所を現在の場所に移し、再度解体修理を行いました。
仁王尊は各、一丈一尺の大きさであり、背後からの釣金の助けなく立たれています。


八角円堂

本尊十一面千手観世音菩薩を祀る八角形の御堂です。現在の八角円堂は江戸時代に再建されたと言われています。

八角堂の著名な遺構としては法隆寺東院夢殿・栄山寺八角堂・興福寺北円堂などがあって、壷阪寺の本堂は日本で初めて建立された八角堂ではないかという学説も出ています。

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⑫お里澤市像

壷阪寺には、このようなお話が残されています。「壷坂霊験記」です。

盲目の澤市は、年下の女房お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていました。ところが、いつの頃からお里は、明けの七つ(午前4時)になると床をぬけだして、いずこへと出ていくのでした。

いったいどこに通っているのだろうか。澤市はお里に不審をいだくようになります。

盲目である劣等感が、猜疑心を深くし、辛抱たまらなくなって、澤市は、とうとう女房を問いつめました。

お里は、涙ながら訴え、澤市の目の病が治るようにと、三年前から、壷阪寺の観音様に朝詣でをしているのだと。

澤市は、ハッとなり、そして疑ったことを詫びます。誤解が解けて、あらためて澤市は、お里と共に手をとりあい、観音様をお参りすることにしました。

やがて、澤市は、何を思ったか、お里を先に帰らせます。澤市は、一人になると、お里を疑ったことを、ひどく後悔し、自分が盲目がゆえにお里に辛い暮しをさせてしまっているのだと自分を責めます。

お里を自由の身にしてやろうと、澤市は、「投身の谷」へ身を投げました。

帰路にあったお里は、ふと不吉な予感がよぎり、急ぎ引き返し、そこで目にしたのは、谷底にある良人の姿でした。
突然のことに、嘆き、お里は、自らも谷へ身を投げてしまいます。

 

これが「投身の谷」のゆわれです

二人のせつない夫婦愛に、観音様が救いの手を差し伸べ、奇跡が起こり二人は命をとりとめるのでした。

そして、澤市の目が開眼したのでした。

 

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⑭天竺渡来佛伝図レリーフ「釈迦一代記」

昭和62年に安置された、このレリーフは、南インド、カルナタカ州カルカラにおいて、延べ5万7,000人の石彫師の手によって、インドの石に彫刻され製作されたものです。

原図は、奈良教育大学教授小川清彦氏がインドを旅し、釈尊の道を訪ねて構図をまとめたもので、数百に及ぶ佛伝図の中から、比較的誰でも知っている釈尊の道が描かれています。

このレリーフは、高さ3m、全長50m、重さ300tに及ぶ大石造美術ですが、インドでは、輸送の都合上各場面を数個に分断し彫刻されました。
そしてその結合・修正は、高松市郊外庵治町で行われましたが、本体の彫刻は何千年もの間、石を刻んできたインドの人たちの技術をそのまま見ていただくように、いっさいの修正を加えませんでした。またレリーフを支える基壇の石は、先に壷阪寺に安置された大観音石像と同じ古石が使われています。

 

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第七番 岡寺

仁王門

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岡寺は奈良県の明日香村の東にある岡山の中腹に位置しています。その昔には日本の首都、飛鳥京の中心地 飛鳥板蓋宮(大化の改新が起こった場所)、現在は明日香村行政の中心地 明日香村役場の東に位置します。過去においても現在においても政(まつりごと)・行政の中心地のすぐそばに位置しています。

義淵僧正が岡宮をもらい受けたことから岡寺と呼ばれていますが、正式には龍蓋寺といいます。当初、伽藍は別の場所にありましたが、現在は山の中腹に江戸時代の書院(重要文化財)や仁王門(重要文化財)、本堂が佇んでいます。

本尊は天平時代作で女性の厄除け観音として信仰を集めている如意輪観音坐像(重要文化財)で、四季折々の花が美しいお寺です。


1.アクセス

大阪方面からは、近畿自動車道 ~ 阪和自動車道 美原JCT ~ 南阪奈道路-大和高田バイパス ~ 国道169号線 明日香村・吉野方面へ

西名阪自動車道では、郡山インターを降りて国道24号線を南下し、明日香村方面へ
(郡山インターから約40~50分)
天理インターを降りて国道169号線を南下し、明日香村方面へ
(天理インターから約40~50分)

 

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参道へのアプローチですが、非常に狭い道です


1)駐車場

 上のアプローチの奥に無料の駐車場があります。

※「岡寺門前駐車場」という駐車場は民営の駐車場で、岡寺とは関係はありません。


2)境内図

 

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2.縁起

 
両親が観音に祈願して生まれてきたのが義淵僧正であるということから、義淵は観音の申し子といわれました。この話を聞いた天智天皇は義淵を引き取り、草壁皇子と共に岡宮で育てたとされています。

後に、天智天皇は仏教の指導者となっていた義淵に岡宮を与えたといい、天智天皇2年(663年)に義淵がこの宮を寺としたのが当寺の創始であるとされていますが、創建年については明確ではないようです。

 

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近くの山に住む龍が村の人々を苦しめているのを見て、義淵は法力でその龍を池に封じ込め石で蓋をしたという。これが龍蓋寺という名称の由来になったといわれています。

この寺は「龍蓋寺」という正式名称よりも「岡寺」の名でよく知られており、日本最初の厄除け霊場です。

 


3.みどころ

1)仁王門

アクセスの項に記載したように、急勾配の坂を上がると龍蓋寺の「仁王門」に着きます。写真でもわかるように、仁王門の前には寺名を彫った石標が立てられていますが、これには『龍蓋寺』という正式名ではなく通称名の『岡寺』の文字が刻まれています。

「仁王門」は華麗な桃山様式の建築で、重要文化財に指定されています。


2)本堂

上述したように「仁王門」を通り抜け石段を上がると、大きな「本堂」が見えます。

「本堂」から受ける印象は他の堂宇と比較して、とにかく大きいということで、造りよりもその大きさが印象的で、現存の本堂は文化2年(1805年)に造られたものといわれています。

 

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3)本尊

本堂に安置されている「本尊」、如意輪観世音菩薩は自由に拝観可能で、重要文化財に指定されています。

この本尊は弘法大師が日本、インド、中国の三国の土を混ぜ合わせて造ったといわれているようで、日本で現存する塑像では最大で、高さは約4.6mといわれ、その大きさに圧倒されます。

本尊には「銅造如意輪観音半伽像」が胎内仏として納められていたようで、この胎内仏は龍蓋寺創建時の本尊といわれています。

 

 

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まとめ

青岸渡寺に続き、西国三十三所二回目の巡礼となりましたが、四国八十八ヶ所の素朴なお寺に比べ、いきなり名刹古刹の連続で圧倒されました。

四国のお遍路というある意味過酷なお寺巡りを終えた後での西国巡礼でよかったと実感しました。何せ「古希まじかCOPDオジサンの旅!」ですからどうすればラクにお参りできるかが最優先なので。

昔からお寺参りの盛んなところなので訪れる者に便利なようにされている一方、観光地化されているようにも感じました。