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『西国三十三所』車で巡礼、古希まじかCOPDオジサンの旅!【紀行遍9・四、五番】

さて、ついに最難関4番槇尾寺の順番がまいりました。いくら先送りしてもいずれお参りしなければならないし、このご時世と、老化による肉体的限界への恐怖への切迫感から覚悟を決めることになりました。

くわえて、槙尾山のお膝元的な5番藤井寺は住宅街のど真ん中、駐車場の不安がよぎります。

 

目次

 


4番 施福寺

本堂

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施福寺は槙尾山に有り、南に岩湧山、東に金剛山、北に大阪湾が眺望できて、夏山も冬山もよし、春は桜、秋は紅葉が楽しめます。花山法皇足守の馬頭観音は足腰を守り、長寿延命、身体健全の守護尊、方違大観音、家の新築、転勤、転職、旅行、結婚等の厄除。いずれにしても日本唯一の大きな観音様です。

1.アクセス

所在地 大阪府和泉市槇尾山町136
連絡先 0725-92-2332

交通
・阪和道の岸和田和泉ICから府道230号・国道480号を経て、府道228号線から槙尾山観光センターの駐車場へ


拝観時間 12月1月2月末日 8:00〜16:00
      3月〜11月末日 8:00〜17:00
納経時間   同上

拝観料   500円


1)駐車場

  槙尾山観光センター駐車場(普通車約100台) 無料

  すぐ入山口になります。

2)境内図

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2.縁起

御本尊 十一面千手千眼観世音菩薩 創建 欽明天皇時代(539~571年)

欽明天皇の時代(550年頃)に、天皇の病気治癒の勅願により行満上人によって開かれ、弥勒菩薩を安置したのを草創とされています。行基菩薩もここで修行したと伝えられ、また、弘法大師はここで剃髪したとされています。

当寺は、平安時代まで修行の寺として繁栄し、全盛期には千近い堂宇が立ち並ぶほどでした。しかし、1581年に織田信長の兵火にあい焼失しました。豊臣秀頼の寄進によって復興して、その後は徳川家の庇護も受けて繁栄を取り戻し、真言宗から天台宗に改宗、江戸の寛永寺の末寺となりました。

しかし、1845年の山火事で仁王門を除く伽藍を焼失してしまい、現在残された本堂などは、その後に信徒らの寄進によって再建されたものとなります。


3.みどころ

1)仁王門

弘化2年(1845年)の山火事で、この仁王門を残して施福寺の建物は、ほぼ全て焼け落ちてしまいました。仁王門の階段前で「迎え観音像」が出迎えてくれます。

 

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2)本堂

寺の規模はそう大きくはなく、「本堂」も特に大きいようには見えません。 施福寺は、かつては真言宗の寺として栄えたとされているが、江戸時代初期には天台宗に改宗したようです。

 

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お寺のご本尊は、行満上人が祀った弥勒菩薩で、その後、706年に高僧行基が修業し、文殊菩薩像を安置。そして、771年に行基の弟子、法海上人が、十一面千手観音像を祀り、札所の本尊となりました。2015年からは常時開帳されています。

また、坐高4メートル以上もある、日本で唯一の方違観音坐像が祀られています。引っ越しや旅行など、凶の方角でも吉方に変えてくれる観音様です。本堂には、そのほかにも四天王像や花山法皇ゆかりの馬頭観音像など、沢山の仏像が安置されています。

 

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3)愛染堂

かつて、勤操僧正がこの寺に住んでいるとき、空海弘法大師)が訪れてきて、寺で修行し、この場所で剃髪し得度したそうです。愛染堂の前には、「弘法大師御剃髪所跡」との銘のある石碑、「弘法大師報恩感徳の為」と書かれた灯籠が建てられています。

弘法大師は唐から帰朝後に、再び施福寺を訪れ、大同2年(807年)から2年間、寺に籠もり真言宗を開くための思索を行ったといわれています。何れにしても、この施福寺弘法大師との縁は深いようです。

 

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4.四方山話

1)参道

本堂までは、八丁(約872m)の距離があるそうです。ここからは、一丁ごとに残りの長さを表す古い石碑が現れたり現れなかったりします。

 

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因みに「一丁」は109m、「八丁」なので872mとなり、1キロに有りません。

山道はいくつかのフェーズに分かれています。まずはなだらかな階段です。段差に蛍光マーカーがついていますが、これは下山時に超役立ちます。山道は基本暗くて下りの段差が超分かりにくいのです。

 

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二丁(約218m)くらい進んだところで、仁王門が登場します。道はなだらかな階段に見えますが傾斜はなかなかなもので、もうすでにめげそうになってきます。

 

仁王門の少し先に休憩所があって腰を下ろすとなかなか立ち上がれません。

もちろん、山道はまだまだ続きます。

 

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次は、石を組んで造られた段差が続きます。コンクリートで整備された最初の道と異なり、このあたりから本格的な山道が始まります。

 

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五丁(約545m)くらい進むと比較的綺麗な石段が現れます。たぶん綺麗にしないと本当に危険だったのでしょう。歩きやすいですが段差が急なのでこたえます。

 

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残り一丁(約109m)になると、またなだらかな段差です。この辺りからゴールが見えてきます。

 

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最後は長く急な石段(約150段)です。ゴールが目前だから頑張れます。

この階段の途中、愛染堂と本堂の中ほどに「弘法大師御髪堂」が建っています。

このお堂には、弘法大師の剃髪した髪が納められているそうですが、一息つくにはちょうどいいところにあります。

 

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2)難所くらべ

昔の巡礼比べると、今は車での道が整備されて参拝しやすくなってきましたが、西国三十三所随一の難所と言われるだけあって、四国八十八ヶ所45番札所の岩屋寺に勝るとも劣らない難所でした。

 

 

 

5番 藤井寺

本堂

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藤井寺の地名の起源である古刹です。本尊の千手千眼観音菩薩坐像は、奈良時代の名仏師である稽文会・首勲父子の作といわれる国宝で、毎月18日と8月9日の千日参りの時だけ開帳され、この日に参詣すれば、46000日分のご利益があるといいます。

ご本尊、その美しさは人々を魅了し、現世利益の観音信仰を支えてきました。


1.アクセス

所在地 大阪府藤井寺市藤井寺1-16-21
連絡先 072-938-0005

交通
近鉄南大阪線 藤井寺駅下車南側徒歩5分位
名阪国道藤井寺ICを出て、長尾街道/府道12号に入り、小山交差点を左折して、府道186号を南進します。約20分。

 市街地のど真ん中にあり一方通行、対向不安は当然のごとくです。


拝観時間 8:00〜17:00
納経時間 同上

拝観料   無
     毎月18日のご本尊開扉日のみ 500円


1)駐車場

  無

  周辺にコインパーキングが多くあります

2)境内図

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2.縁起

御本尊 十一面千手千眼観世音菩薩 創建 神亀2年(725年)

当寺は7世紀代に、百済から渡来した葛井氏の氏寺として建立されたと伝えられています。その後の神亀元年(724年)に聖武天皇十一面千手観音の造立を命じ、翌年の神亀2年に天皇臨席のもと行基が導師となって開眼法要が行われたといわれ、この時をもって葛井寺の創始とされているようです。

葛井寺に所蔵されている室町時代の「葛井寺参詣曼陀羅図」によれば、当時は薬師寺式伽藍配置をとっていたと推定され、その規模は2km四方に及んでいたといわれ、このように、葛井寺奈良時代から平安時代にかけて大いに栄えていたようです。

明応2年(1493年)には戦火に遭い、更に永正7年(1510年)の大地震で寺の諸堂がすべて倒壊しました。そのあと修復には様々な苦労が重ねられ、18世紀後半には次々と再建され、現在の規模になったといわれています。

 


3.みどころ

1)本堂

「本堂」は30年余りの時日をかけて安永5年(1776年)に再建されたものといわれ、国の重要文化財に指定されている。

本堂内に祀られている春日仏師作の「本尊」十一面千手千眼観世音菩薩(千手観音坐像)は前述の縁起の項にも記載したように、神亀2年(725年)に聖武天皇の勅願により安置されたものといわれ、現存最古の千手観音像として貴重であり国宝に指定されています。


2)御本尊

御本尊の十一面千手千眼観世音菩薩像

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仏像自体は大きいものではありませんが、像には多数の脇手がビッシリと出ていて、脇手の数は1039本あるといわれます。これらの脇手の内、38本あるという比較的大きい脇手は仏具らしきものを持っていますが、これらは経典に定められたものらしく、全ての手の掌には眼が描かれていたといいます。

まさに言葉通りの千手千眼観音坐像であり、約1300年もの歴史を経た仏像故か非常に印象的です。それにしても、寺は戦火や大地震に遭遇していますが、これらの災害から仏像を護ってきた人々に敬意を表すべきでしょう。

 


3)三鈷の松

「旗掛けの松(三鈷の松)」があって、この松の木は南北朝の動乱期、楠正成が本尊に戦勝祈願をしたとき、菊水の旗を掛けた木とされています。

楠正成が戦勝祈願をしたとき、三人の息子(正行、正時、正儀)に、この三葉になっている松葉のように三人が力を合わせ一つになって武士道に励むよう誓わせたといいいます。

以来、この松葉を持つと力が付くという言い伝えがあり、珍重されているようで、三葉の松葉の落ち葉を探している参拝者をみかけます。

 

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まとめ

施福寺の参道は通常30分のところ、実に1時間半もかかりました。諦めなければ、いつかは成就するという実感が湧きました。もっとも限界を見極めなければ危険な行為であったことは否めませんが。