凸凹玉手箱

A Post-Baiby Boomer

映画『海賊と呼ばれた男』大胆な発想や行動力で、激動の時代に、大事業を成し遂げていった男の姿を描いています!!

 

この映画『海賊とよばれた男』は、百田尚樹よる同題の歴史経済小説を原作として、出光興産創業者の出光佐三をモデルとした主人公、国岡鐡造の一生と、出光興産をモデルにした国岡商店が、第二次大戦の戦前戦後の困難を乗り越え、大企業にまで成長する過程が描かれています。2016年12月に東宝より全国公開されました。

目次

 

 

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1.制作

映画化にあたり、2014年年間邦画興行収入ランキング第1位に輝いた『永遠の0』の製作チームが再集結しました。脚本・監督は『ALWAYS 三丁目の夕日』『STAND BY ME ドラえもん』『永遠の0』を手掛けた山崎貴、主人公・国岡鐵造役は『永遠の0』の主人公役で第38回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞した岡田准一が務め、劇中で20代から90代までを演じました。

監督の山崎は本作を映画化しようと決めたきっかけについて、「終戦直後のあの時代、皆が下を向いていたときに、とんでもないことをしでかした男達が居たということへの驚きが原動力。その背景を探求したくなった。」と述べています。時代、ロケーションにより本作におけるVFXのカット数は、『ALWAYS 三丁目の夕日』の3倍に及んでいます。


2.ストーリー

1)プロローグ

1945年の夏、アメリカ軍に対抗できる航空戦力を完全に失った日本は、東京大空襲によって焼け野原となっていました。国岡鐵造(岡田准一)とその仲間たちは、為す術なく真っ赤に燃える東京の街の様子をただ見つめるだけでした。

戦争が終結した2日後の1945年8月17日、解雇に怯える社員たちを前に、鐵造は「日本人としての誇りを失わず、全員一致して社業を再興させよう」と訓示を行った。当面できる仕事はなかったが、社員を誰一人クビにせず、守り抜くと皆の前で誓いました。


2)再興への障害

その日、鐵造は石油統制配給会社(石統)を訪問し、取り扱う石油を融通してもらえるように鳥川卓巳総裁(國村隼)に頭を下げて頼み込みました。ぐっとこらえて何度もお願いしましたが、戦前に関係が悪化していた石統の鳥川に、案の定相手にされない鐵造でした。

その晩、自宅に帰り、妻と息子たちに迎えられた鐵造でしたが、自室の書斎にこもると、忸怩たる思いから、過去に思いをはせるのでした。


3)若き日の鐵造

1922年。27歳となった鐵造は、門司で独立し、これから迎える石油全盛時代に備え、機械油の代理店「国岡商店」を営んでいました。石油がまだマイナーだった時代、営業で苦戦続きの鐵造は、同業者からの嫌がらせや、取引先の袖の下の要求などに屈せず、自ら定めた社是「士魂商才」を胸に、仕事に打ち込んでいました。

しかし、経営に行き詰まる鐵造は、独立する時に出資してくれた木田章太郎(近藤正臣)に弱音を吐きましたが、木田からは「3年でダメなら5年、10年、とことんやってみろ。それでもダメなら共に乞食でもしよう」と激励され、気合を入れるのでした。

 

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そんな窮地に、鐵造は焼玉エンジンで動く漁船(ポンポン船)向けに、灯油の代わりに元売りの日邦石油内に売れずにだぶついていた軽油を格安で売ることを思いつきます。実験してみたら、軽油でも焼玉エンジンは作動しました。

「船だせー」という鐵造の掛け声とともに、翌朝以降、商圏の縄張りがない門司の海上で、軽油の行商を始めた鐵造は、遠くからも見えるように旗を振り、「油持ってきたけぇ~」という掛け声とともに、漁船へゲリラ的に販売活動を行いました。

これが見事に当たり、同業者の嫌がらせもありましたが、国岡商店はどんどん成長していきました。やがて、近辺で鐵造は賞賛と揶揄が入り混じり「海賊」と呼ばれるようになるのでした。

この頃に、後の国岡商店のキーマンとなる長谷部喜雄(染谷将太)や東雲忠司( 吉岡秀隆)が入社してきました。また、商売が軌道に乗った鐵造は、兄の勧めでユキ(綾瀬はるか)という妻を迎え、妻も含め、ようやく10名となった国岡商店は、一つの大きな大家族みたいな集団となりました。

 

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4)満州の営業

1915年、軽油海上給油販売で力をつけた国岡商店は、満州への営業を開始していました。サンプル品を持って、長谷部と共に南満州鉄道の現場へ営業をかけました。冬場にも凍らない機関車の車輪に使用する車軸用の潤滑油を安く提供することで商機を見出した鐵造は、大連の満鉄本社でも営業を開始します。

いよいよ3度目の渡航となった1918年、このプレゼンが終わったらゆっくり旅行でも行こう、とユキを労い、鐵造は満州へ出発しました。

満州では、寒波によって頻発する車軸の焼付きを防ぐための、不凍油を実証実験するための場に国岡商店と石油メジャー数社が呼ばれていました。機関車を実走させ、その後の状況を比較チェックすると、「ナフテン系」の石油で精製した国岡商店の車軸油のパフォーマンスがNo.1であることが判明し、実験では優秀さを証明できましたが、メジャー系会社を恐れた満鉄本社は、なかなか国岡商店の車軸油を採用しようとしませんでした。

さらに悪い事に、帰国すると門司の家にはユキがいませんでした。居合わせた兄を問い詰めると、跡継ぎもできず、一人で鐵造を待つ寂しさから離縁を申し出て実家に帰ってしまったというのです。愛する妻を守れず、悔しがる鐵造でした。


5)長谷部の死

1941年12月、太平洋戦争が勃発し、翌42年、ABCD包囲網により、石油が輸入できなくなった日本は、南アジアの石油基地を占領しました。石統のあからさまな利権確保への動きを嫌った陸軍は、南方基地での石油取扱業者を国岡商店に一任することになり、石統の鳥川は地団駄を踏んで悔しがりました。

陸軍から、何日あれば南方に人員を派遣できるか尋ねられた長谷部は、自信を持って「1週間あれば200人はOK」とその場で即答し、陸軍関係者を良い意味で驚かせるのでした。長谷部は、南方の石油基地への移動に陸軍機に同乗して出向きましが、到着寸前で米軍機に撃墜されて無念の死を遂げました。長谷部の死を知らされた鐵造は呆然とするのみでした。


6)戦後の困難

終戦となり、60歳となった鐵造のもとに、海外に出征していた国岡商店の社員が次々に復員して互いの無事を喜びましたが、まったく仕事がありませんでした。

 

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そうした時、元海軍大佐の藤本という男が訪ねてきました。GHQからの依頼で、銀行から融資を受けてラジオ修理の仕事をやらないかといいます。鐵造は藤本をそのまま入社させ、ラジオ部を立ち上げました。苦心した末に銀行からの融資が決まり、立ち上がったラジオ部は、戦後まもなく石油業務ができなかった国岡商店を支えました。

また、その頃、GHQの出した石油輸入解禁の条件で、全国の石油タンクの底に残る石油をさらう業務を国岡商店は受注しました。他社がやらないキツくて厳しい業務でしたが、鐵造は率先して国益のために引き受け、復員してきた東雲達がそれを担当することになりました。

タンクからの汲み出しは難航しましたが、鐵造の激励などもあり、2年後の1947年には、見事に全てやりきった国岡商店でした。

 

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同年、GHQで通訳を勤めていた武知甲太郎(鈴木亮平)が、国岡商店の仕事ぶりに惚れこみ、アポなしで国岡に「社員にしてくれ」とやってきました。その場で採用を即決する鐵造でしたが、武知は、石統に変わって設立された石油配給公団が指定する「販売業者」選定要項案に、国岡商店を排除するための一文が入っていることを鐵造に報告しました。

早速武知を中心に、GHQへの働きかけを行い、石油配給公団の選定要項を覆すことに成功し、晴れて国岡商店は、国内で正式に石油を販売できる業者になりました。GHQが国岡商店に取り計らったのは、武知の動きもありましたが、前年までの石油タンクをさらう業務を評価してのものでした。


7)日承丸イランへ

その後、石油メジャーからの提携話(買収)もありましたが、民族系の石油会社にこだわった鐵造は、1951年いよいよ自前の巨大な石油タンカー、「日承丸」の進水式を行いました。メジャーとは敵対関係にありましたが、何とか自前の仕入れルートを確保して、日本中に石油を供給するのでした。

しかし、徐々にメジャー各社から仕入れルートを絶たれ、国岡商店は、日々の仕入れに苦慮するようになっていきました。鐵造は、起死回生の一策として、石油メジャーの色がついていないイランから輸入することを思いつきます。

イギリス、アメリカに対立していたイランの国際情勢を考えると拿捕される可能性が高く、重役陣から猛反発を受けた鐵造でしたが、それでも鐵造の意志は固く、自前の日承丸を動かして、イランに船を送りました。

 

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イランでは大歓迎され、給油を終えた日承丸は、石油を満載して帰途につきました。イギリス軍の基地があるマラッカ海峡を大きく迂回して、スンダ海峡経由で裏をかきましたが、途中でイギリス軍のフリゲート艦「バンカーベイ」に見つかり、停船警告を受けます。

しかし、船長の盛田辰郎(堤真一)は強気でそのまま突っ込み、スレスレのところで衝突を免れました。イギリス船は、盛田の必死の呼びかけのためかその後追ってきませんでした。

 

その数日後、たくさんのマスコミが構える中、無事に川崎港に到着した日承丸を鐵造以下、重役も満足そうに見つめるのでした。「油持ってきたけぇ~」と思わず懐かしいフレーズが自然とこぼれるのでした。戦争後もずっと戦い続けた鐵造の戦いに一区切り着いた瞬間だったのです。


8)エピローグ

その後、鐵造は96歳まで生きました。亡くなる直前、離縁したユキの縁者、小川初美 (黒木華)と対面し、ユキのその後を回顧して涙する鐵造でした。そして、大勢の息子、孫達に囲まれ、海賊と呼ばれた若き日々に思いを馳せるのでした。

 

3.四方山話

1)山崎貴監督インタビュー

a)鐡造像

映画って立派な人を立派に描いてもつまらないというのが持論としてある。これをやるんだったら鐡造さんの弱さも描かなくてはならない。まわりの人たちがどういう思いをして、彼についていったのか。そんな鐡造の決断を受け入れる集団がいかにして出来上がったかなど、そうした観点で作り上げれば面白い映画になるかもしれないなと思いました。

                            東洋経済ONLINE


b)VFX

アメリカでは、VFXの人を扱うのは「猫の放牧」だと言われているんです。みんな好き勝手なところに行くから、大きな囲いを作って、猫を放牧しているくらいの気持ちじゃないとVFXプロダクションのマネジメントはできないといわれているんです。まさにその通りで、みんな好き勝手なことをやってしまうので、みんなに「こっちだよ」と言いながら、ある場所に連れていくことがVFXプロダクションを仕切るということだと思います。ただ、それはスーパバイザーの渋谷(紀世子)という女性がいて。これがなかなか優秀な“猫使い”なんですよ。だから僕は夢を語っていればいいんです。

                            東洋経済ONLINE


2)岡田准一インタビュー

ただの伝記ものではないし、すごく格言めいたことを口にするので、おとなしく演じると埋もれてしまう。ただし、良い事を言う時に『良い事を言っています』とならないように留意しなければならなかった。
最初は体を絞って、割と細めでやりたかったんですよ。でも早めの段階で、それでは演じ切れないと思って、貫禄を出すために体重を増やす方向へと切り替えました。(劇中で国岡商店内に掲げられている)侍の心を持って商売をする“士魂商才”という言葉が引っかかっていたんです。侍の時代は終わったし、戦争にも負けたけれど、それでも復興していく時代を(劇中で)生きていくなかで、侍の心というものは自分の中で外せない部分でした。
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3)日章丸(日承丸)事件

日本は第二次世界大戦後、イギリスやアメリカなどの連合国による占領を受けて、占領終了後も両国と同盟関係にあるために独自のルートで石油を自由に輸入することが困難であり、それが経済発展の足かせとなっていました。

一方、イギリスの影響下にあったイランは第二次世界大戦後独立していたものの、当時世界最大と推測されていたその石油資源はイギリス資本たる石油メジャー「アングロ・イラニアン社」(BPの前身)の管理下に置かれ、イラン国民はもとより政府にもその利益がほとんど分配されない状況にありました。その中で、イランは1951年に石油の国有化を宣言し、アングロ・イラニアン社の資産を接収します。反発したイギリスは中東に軍艦を派遣し、イランへ石油の買付に来たタンカーは撃沈すると国際社会に表明する。事実上の経済制裁・禁輸措置を執行するイギリスにイランは態度を硬化させます。これらはアーバーダーン危機と呼ばれ、戦争が近づきつつある情勢となっていました。

そこで、イラン国民の貧窮と日本の経済発展の足かせを憂慮した出光興産社長の出光佐三は、イランに対する経済制裁国際法上の正当性は無いと判断し、極秘裏に日章丸(タンカー・同名の船としては二代目)を派遣することを決意しました。

イラン側は、各国の企業と条件面で合意していても実際の貿易には全く結びついていない前例と、当時国際的にはほぼ無名の中小企業に過ぎなかった出光を見て初めは不信感を持っていたといいますが、粘り強い交渉の末に合意を取り付け、国内外の法を順守するための議論、日本政府に外交上の不利益を与えないための方策、国際法上の対策、法の抜け道を利用する形での必要書類作成、実行時の国際世論の行方や各国の動向予測、航海上の危険個所調査など準備を入念に整えて、日章丸は1953年(昭和28年)3月23日午前9時、神戸港を極秘裏に出港しました。

 

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4.まとめ

今で言えば、国岡商店の企業内外の活動はブラック企業そのものですが、同じようなことをやっていても、鐵造は先頭に立ち責任を取るところが大違いです。
まあ、時代、情勢で事情は今と全く異なっていますが、ある種の豪傑で部下を愛し、慕われた鐵造ならばこそ出来た偉業だったのでしょう。