凸凹玉手箱

A Post-Baiby Boomer

映画『アラビアのロレンス』今よみがえる世紀の名作です!!

70mmの大画面の隅々まで神経が行き届き、大作映画かくあるべしというお手本のような作品となっていて、スクリーン作りだけでなく、シナリオ良し、俳優良し、そして音楽も良し。さすが映画史に残る傑作です。

 

目次

 

 

1.評価

米国映画撮影監督協会(American Society of Cinematographers, 略称: ASC)という100年の歴史を持つ団体があり、ちょうど100周年を迎えた2019年1月8日、「20世紀の映画ベスト100」を選出し、発表しました。

なかで、1位となったのが『アラビアのロレンス』(1962年)でした。米国の団体だけあってアメリカ映画が多いのですが、外国映画も選出の対象になっていて、100位の中には黒澤監督の「羅生門」「七人の侍」が選ばれています。

選考基準については、明確ではありませんが、撮影に重きを置きつつ、映画としての総合的な作品力が評価されているようです。

 

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2.あらすじ

物語は、トーマス・エドワード・ロレンス自伝『知恵の七柱』からロバート・ボルトが脚色しました。1916年、英国陸軍カイロ司令部に勤務していたロレンス少尉(ピーター・オトゥール)は、トルコに対して反乱を起しつつあるアラブ民族の情勢を確かめる為に、3ヵ月間の欠勤許可をもらいました。

 

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ロレンスは灼熱の砂漠の中を反乱軍の指揮者ファイサル王子(アレック・ギネス)の陣営に旅立ちましたが、途中、同じ民族が血を流しあうのを見て愛想をつかし、ハリト族の首長シャリーフ・アリ(オマー・シャリフ)の案内申し出を断りました。陣営近くで待ち構えていた英軍の連絡将校ブライトン大佐(アンソニー・クェイル)に出会いましたが、陣営につくや突如トルコ空軍の爆撃を受けました。

そこでロレンスは近代武力の前に暴露されたアラブ反乱軍の無力さをまざまざと見せつけられました。ブライトン大佐は彼らに英軍の武器による指導と訓練を提案しましたが、ロレンスはゲリラ戦を主張しました。つまり、トルコ軍の重要地点アカバの反対側にいるアウダ・アブ・タイ(アンソニー・クイン)を首長とするハウェイタット族と手を結び、背後から敵連絡網などを叩いて撹乱させるという作戦でした。

 

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ロレンスとアリはアラブ民族の団結を説きましたが、アウダは一笑に付すだけでしたが、アカバに秘宝があるという話を聞くと、彼はロレンスに助力を約しました。

補強された部隊が進撃中、ガシムがアウダの部下と争い相手を殺してしまいました。「眼には眼を」という砂漠の掟に従い、ガシムを殺さねばならなかったのです。死を賭してまで救ったガシムでしたが、ロレンスは引金を引きました。

アカバでの戦闘は苛烈をきわめました。燃えるものは全て焼き尽され、ロレンスが意識を回復したときにはトルコ兵の姿はなく、アウダが役にも立たない書類の箱を抱えているだけでした。

ロレンスはアカバ攻略を告げるためカイロに向いました。カイロに着くと司令官が変りアレンビー将軍(ジャック・ホーキンス)になっていました。ロレンスは、ゲリラ戦の指導者という、新たな任務を与えられました。何回目かの鉄道爆破のとき、部下のファラジが重傷を負いました。ロレンスは捕虜になったときの過酷な仕打ちを恐れ、その場で射殺しました。

エルサレムに行ったロレンスは、すでに英仏両国間において、アラブとトルコの土地を二等分するというサイクス=ピコット条約が結ばれているのを知り愕然としましたが、ロレンスのゲリラ部隊は再編成され、アリもアウダも参加していました。

部隊がロレンス支持者の集落へ来たとき、すでに集落はトルコ軍の襲撃を受け燃え上り眼前に悲惨な光景が待っていました。怒ったロレンスはトルコ兵を最後の一人までも追って殺害しました。

ダマスカスには、イギリス軍の到着の一足先に陥落させ、アラブ民族会議を立ち上げましたが、種族間の争いが起り、アウダは部下を連れ砂漠へ帰り、アリは政治の勉強のためダマスカスに残ると言いいました。

その時ロレンスはトルコの病院に忘れられている200人の重傷者のことに心がおよびました。彼はアラビア人の服をまとって病院へ向いました。しかしながら、服装で誤解した英国の軍医に、彼こそこの惨状を引き起したアラビア人の張本人だと平手打ちを食わされました。

アレンビー将軍の司令部でも、やがてシリアの王となるファイサル王子にとっても、ロレンスは無用の者となりつつありました。彼は態のいい追放を受け、その時はじめて彼の心に孤独感がしみわたったのでした。

大佐への進級と、英国への帰還船に個室が用意されたことだけが、ロレンスの砂漠での功績に対する感謝の印でした。軍の自動車でダマスカスを発ったロレンスは、窓外に顔なじみを探したが、誰一人として彼に気づく者はいなかった。いまや、ロレンスを覚えているのは荒漠たる砂漠の広がりだけかも知れなかった。
その傍らを、すり抜けて追い越していく軍用バイク。冒頭のバイク事故のシーンの謎解きで、映画が終わる演出になっています。

 

3.エピソード

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本物のロレンスに似ている無名の新人(ピーター・オトゥール)を主役に起用し、そのまわりをベテランのスターたちで固めています。そして、壮大な映像と映画音楽、それに、砂漠に太陽が昇り沈む数々の名シーンなどで、20世紀映画の金字塔ともいわれています。

映画の中の太陽と砂の映像が神々しく、映像を見るだけでもアラビアの自然の厳しさが実感できますが、ロケーション撮影も過酷だったようです。

砂漠にレールを引いて、その上をカメラが動きまわる移動撮影は、ワンカットで撮影するために、60mのレールを引き、カメラを載せた移動車両が50km/hで移動するなどしたようです。

戦闘シーンは灼熱の砂漠にスモークがたかれ、汽車の爆破シーンは、特撮班が線路の下に火薬をしかけて、撮影のチャンスは一度きりだったといいます。

また、各シーンの撮影の度に、ラクダや俳優たちの足跡を消す作業も必要だったようです。

大群衆の撮影では、ヘリコプターを飛ばし、アクション開始合図はロケット弾で、なにしろ、カメラなどの撮影機材費だけで1億8000万円(1961年当時)も掛けています。

ロケーション撮影は1961年に開始。映画会社が当初たてたスケジュールは5ヶ月でしたが、実際の撮影には2年3ヶ月も要しました。

ロケ地は、ヨルダン、スペイン、モロッコ、ロンドン、サリー州、カリフォルニア州などに渡っています。

ヨルダンではフセイン国王が全面的に撮影協力し、本物の武器を無料で貸し出し、3万人の砂漠パトロール隊と1万5000人の実在のアラブ遊牧民ベドウィンがアラブとトルコの兵士のエキストラになっていました。

 

4.ロレンスのプロフィール

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トーマス・エドワード・ロレンスは1888年にイギリス、ウェールズのトレマドックで生まれました。父は、後に第7代チャップマン準男爵となる、トーマス・ロバート・タイ・チャップマンで、母はセアラ・ロレンス。夫妻は正式な結婚ができなかったため、ロレンス姓で生活しました。映画のなかでも、アリとの会話で父親が貴族であってもそれを継ぐことはできないと語らせています。

1907年に、オックスフォード大学ジーザス・カレッジに入学。1907年と1908年の夏には長期に渡ってフランスを自転車で旅し、中世の城を見て回りました。1909年の夏にはレバノンを訪れ、1,600キロの距離を徒歩で移動しながら、十字軍の遺跡調査をしています。1910年の卒業時には、これらの調査結果を踏まえた論文は、最優秀の評価を得ました。

卒業後は、アラビア語の習得のため、ベイルートを経由してビブロスに滞在しました。1911年には、恩師のデイヴィッド・ホガース博士による大英博物館の調査隊に参加して、カルケミシュで考古学の仕事に従事しました。同じ頃、ガートルード・ベルと知己を得ています。

これらの経験が、ロレンスのアラブへの知識と愛着を醸成したのでしょう。

 

5.アラブとは

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アラブ人たちは先祖から砂漠に生きる遊牧民です。彼らの信条には欧米諸国の価値観とは相容れない部分が歴然としてありました。当然、ダマスカス陥落後、街のライフラインを保持することがアラブ民族にはできません。彼らにとって戦利品はその場で山分けにして持ち帰るものでした。

市街地を文化的な生活ができる状態で維持していくために、技術を学んで施設を使いこなし、そこに定住するなんてことはしないし、できないのです。取れるときに取る、取るべきものは取る、それは不毛の砂漠に暮らす人々の、長年の経験によって培われた知恵でもありました。

略奪と破壊を繰り返してきた歴史に疑問を感じることもなく、特に不都合も覚えない彼らは、民族としての誇りも自負も人一倍ある人々です。根本的に「奪う」ことができなくなればあっと言う間に離れていってしまいます。そこがヨーロッパの人々とは明らかに異なっているところでした。ロレンスが働いたのはイギリスのためでもありましたが、それ以上にアラビアの人々のためでもあったはずでした。

 

6.まとめ

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ロレンスの栄光とは裏腹に、アラブ民族の典型のようなアウダ、そしてアラブでしたたかに生きてきたファイサル王子、列強の思惑のままに振る舞うドライデン顧問やアレンビー将軍に振り回され、ロレンスはアラビアで生きることをいつか苦痛に感じ始めました。

善なる者であったはずの、自分の中の狂暴性に相対し、謙虚であったはずの自分が、我をうしないつつある事に気づき、精神の均衡を崩していきました。また、トルコ軍に捕まって辱めを受けたことも大きな要因でした。

最後まで「友」として側にいようとしてくれたアリとも袂を分かって、帰国するロレンスの目にラクダで砂漠を行くベドウィンたちはどのように映っていたのでしょうか。

アラビアの地で、数奇な運命に翻弄された稀代の英雄の物語です。