凸凹玉手箱

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映画『太陽がいっぱい』と『リプリー』は同一原作の似て非なる映画です?!

アメリカのパトリシア・ハイスミス1921年~1995年)が書いたの小説『The Talented Mr. Ripley(才人リプリー君)』を原作とした映画が2本あって、フランス・イタリアで1960年に公開されたのが『太陽がいっぱい』、もう1本は『リプリー』で、1999年にアメリカで公開されました。

目次

 

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1.プロローグ

原作となった、ハイスミスのこの小説は、よほど映画作家の創作意欲を刺激するのでしょう、ミンゲラ監督の『リプリー』はクレマン監督の『太陽がいっぱい』に続く2度目の映画化になります。
型どおりにいえば『太陽がいっぱい』のリメイクではありますが、しばしば映画の本の中で指摘されるような、「原作を忠実にたどった映画」などでは決してありません。
両作ともプロットがほぼ同じなのですが、ミンゲラの作品はクレマンの作品とは似ても似つかないものに仕上がっています。かといって、プロットは原作のものをかなり下敷きに用いてはいますが、それは素材として利用しているだけで、随所にミンゲラの独創、新解釈がちりばめられている、『リプリー』は『太陽がいっぱい』と同様に原作とは似て非なるものとなっています。

映画の原作が同じで登場人物も舞台もほぼ同じです。しかしながら主人公の立ち位置が微妙に違っています。二つの映画は約40年の月日の隔たりがあります。LGBTという言葉が一般化している現代と違い、この二つの映画の表現にも当然時代の差が出ているのを感じます。


2.『太陽がいっぱい

 

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1)タイトル

フランス語のタイトル「plein soleil」はフランス語の文章中では「en plein soleil」という成句でしばしば用いられていて、これは「太陽が照らす下で」「青空のもと(屋外で)」または「真昼間に」などといった意味が基本的にあって、さらには、フランス語のネイティブ話者にとっては「太陽(お天道様、神様)は全部見てるよ(悪事を隠すことなんてできないよ)」といった意味がほのめかされているように感じられる表現でもあります。

そして観客は、このタイトルが物語の結末や教訓を暗示していたことに、映画観賞後になって気づくことになるわけです。

昭和期の日本人翻訳者はつい「太陽がいっぱい」と訳しましたが、誤訳ぎみではあるものの、多くのシーンやラストシーンの陽光に溢れた情景を象徴し、その裏にある影の部分を暗示させて、なかなかの名訳ではありませんか。


2)キャスティング

トム・リプレー⇔アラン・ドロン
フィリップ・グリンリーフ⇔モーリス・ロネ
マルジュ・デュヴァル⇔マリー・ラフォレ
フレディ・マイルズ⇔ビル・カーンズ

アラン・ドロンの悪魔的美しさが随所に見られ、またそれがこの映画のウリともみえます。この映画でアラン・ドロンは世界に広く知られ、俳優のキャリアを駆け上ってゆきっかけとなった作品となっています。

3)スタッフ

監督 ルネ・クレマン
脚本 ポール・ジェゴフ、ルネ・クレマン
製作 ロベール・アキム、レイモン・アキム
音楽 ニーノ・ロータ
撮影 アンリ・ドカエ

 

4)あらすじ

イタリア、ローマのカフェで、アメリカ人大富豪の息子フィリップ・グリーンリーフ(モーリス・ロネ)とトム・ リプリーアラン・ドロン)話し込んでいました。トムはフィリップの父親から、イタリアで気ままに遊び暮らしている息子をアメリカに連れ戻すように報酬条件付きで依頼されていました。

それを知ってフィリップは、貧乏なトムを完全に馬鹿にし、付き人のように彼を従えて傍若無人に振る舞います。一方でトムは苦労知らずで尊大、決して素行が良いとも言えないフィリップを心の中で見下しているのでした。

ある日、息子を連れ戻せない事に痺れを切らしたフィリップの父から契約を打ち切ると書かれた手紙を受け取ったトムですが、手持ちの資金も底をつき、フィリップと行動を共にせざるを得なくなり、日に日にフィリップへの嫉妬と憎しみが募ってゆきます。

フィリップにはモンジベッロでフラ・アンジェリコの研究をしている婚約者のマルジュ(マリー・ラフォレ)がいますが、マルジュはフィリップがトムと遊び歩いてばかりで、自分をないがしろにしていると感じてすねていました。フィリップはマルジュをおだてて機嫌を取り、トムの目の前で彼女を愛撫し始めます。邪険に追い払われたトムはフィリップの服や靴を身に付け、フィリップの口真似をして時間を潰しますが、その姿をフィリップに見られ咎められます。

 

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自分にはけっして手の届かない高価な衣類、そして美しい婚約者…トムの心にフィリップに対する黒い感情が芽生え始めるのでした。

彼そっくりのサインをする練習をし、フィリップの身分証明を偽造、彼の声色も練習し、フィリップになりすます計画は進んでいきました。フィリップの身を案じるマルジュには、タイプライターで打った偽のフィリップからの手紙を渡し、何とかやり過ごします。

しかし身元を偽って泊まっていたホテルにフィリップの友人のフレディ(ビル・カーンズ)が訪ねて来ます。フレディはトムがフィリップになりすましている事に気がつき、トムを問い詰めます。トムはフレディを撲り殺してしまいました。

恋人を失い絶望するマルジュにトムは言い寄ります。優しく親身になり徐々にマルジュの気持ちはトムに傾きとうとう二人は結ばれます。ついにトムはフィリップの財産も婚約者であったマルジュも手に入れたのでした。

 

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バカンスを楽しむトムとマルジュ。トムは全てを手に入れました。フィリップの遺産の一部としてマルジュに譲られた例のクルーザーを彼女は手放すことにしました。手続きのために業者と話をしに行くマルジュ。ビーチに一人残ったトムは幸福を噛み締めて、売店の従業員に言います。「太陽がいっぱいだ」と。

その頃、業者の立ち会いの下、点検のために引き上げられたクルーザーは何やら大きな包みのようなものを引きずって陸に上がってきました。隙間から覗く腐敗した人間の腕…トムが海に沈めたはずのフィリップの死体は船に引っ掛かっていたのです。マルジュの悲鳴が辺りに響き渡ります。

そんなことはまるで知らないトム。売店の従業員が彼に電話があると告げる呼び声に笑顔で答え、売店には刑事達が待ち構えているとも知らずに、売店へ向かいました。

 

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5)エピソード

a.音楽

本作品のテーマ音楽は世界中で大ヒットし、スタンダードにまでなっていますが、作曲を担当したニーノ・ロータは、この作品に携わった事に強い不満を残しています。フェデリコ・フェリーニの常連作曲家であった彼は、フェリーニのようにお互いに話し合いながら音楽を練っていく方法を是としていましたが、本作の監督であるルネ・クレマンは居丈高にロータにフィルムを一方的に送りつけ、これに似合う音楽を作れと命令したため、クレマンの態度にロータは立腹したということです。

b.LGBP

淀川長治吉行淳之介 との「恐怖対談」(新潮社、1980年)で「あの映画はホモセクシャル映画の第1号なんですよね」と発言していました。

c.ラスト

ラストはこの映画のオリジナルです。原作ではトム・リプリーは破滅することはなく、同じ作者のシリーズ・キャラクターとしていくつもの小説に登場し、ヴム・ヴェンダースリリアーナ・カヴァーニによって映画化されました『アメリカの友人』(1977年)や『リプリーズ・ゲーム』(2002年)です。それぞれで、デニス・ホッパージョン・マルコヴィッチリプリーに扮しています。

 


3.『リプリー

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1)タイトル

原作がアメリカのパトリシア・ハイスミスの同名小説(原題:The Talented Mr. Ripley)であるためかそのまんま使っています。邦題では原題に敬意を表してか、続編を意識してかやはり『リプリー』で、アメリカ映画によくある主人公の名前がそのままタイトルになっています。とひねりも芸もありません。

そういえば、マット・デイモン出世作『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(1998年)もよく似たものです。


2)キャスティング

トム・リプリーマット・デイモン
ディッキー・グリーンリーフ⇔ジュード・ロウ
マージ・シャーウッド⇔グウィネス・パルトロー
フレディ・マイルズ⇔フィリップ・シーモア・ホフマン

途中で殺されるのがもったいないジュード・ロウが主役を食っています。殺されるのが当然に思えるほどの名演で、アカデミー助演男優賞にノミネートされました。

 

3)スタッフ

監督・脚本:アンソニー・ミンゲラ
製作:ウィリアム・ホーバーグ、トム・スターンバーグ
衣装デザイン:ゲイリー・ジョーンズ、アン・ロス
音楽:ガブリエル・ヤレド
撮影:ジョン・シール

 

4)あらすじ

1950年代のニューヨーク。貧しく孤独な青年であったトム・リプリーは、ピアノ弾きの代役として出向いたパーティで、借りて着ていたジャケットのために、大富豪のグリーンリーフに息子のディッキーと同じプリンストン大学の卒業生と間違われました。とっさにディッキーの友人を装ったトムは、グリーンリーフにすっかり気に入られて、地中海で遊び呆けているディッキーを連れ戻すように依頼されます。

これをチャンスと思ったトムは、ジャズが好きというディッキーと話を合わせるためにジャズに関する知識を猛勉強し、イタリアに向かいました。 イタリアに着いたトムは、大学の友人を装いディッキーに近づきます。父親に依頼されて自分を連れ帰ろうとしているトムに、はじめは反発していたディッキーでしたが、トムがジャズに詳しいことを知ると、周りにいないタイプの人間という物珍しさもあり、トムを連れ回して遊ぶようになりました。

豪華で贅沢なバカンスを共に過ごすうちに、傲慢で身勝手ですが魅力的なディッキーにトムは憧れ以上の愛情を抱き始めます。しかし、トムの物珍しさにも飽きたディッキーは徐々にトムの存在が疎ましくなってきました。そして遂にディッキーから激しい罵りの言葉で別れを告げられたトムは発作的にディッキーを殺してしまいました。

 

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ホテルに戻ったトムはフロント係にディッキーと間違われたことから、ディッキーになりすますことを思いつきます。トムとディッキーの二重生活を巧みにこなし、悠々自適な生活を続けるトムでしたが、ディッキーの旧友フレディが現れ、トムを怪しんだことから、フレディを事故に見せかけ殺害してしまいます。

一方、ニューヨークからの船でディッキーのフリをして知り合った名家の令嬢メレディスと再会したトムは、彼女をエスコートしていた青年ピーターと知り合い、愛し合うようになりました。

その後、ディッキーの恋人マージに怪しまれながらも、何とか切り抜け、まんまと財産をものにしたトムは、ピーターと船旅に出ます。しかし、その船でトムはメレディスと出会ってしまいます。いまだにトムをディッキーと信じているメレディスとキスしているところをピーターに見られ、嘘をつき続けることに苦しむトムは愛するピーターをも手にかけてしまいました。


5)エピソード

a.登場人物

もうひとり、ピーターという音楽家をトムは手にかけてしまうのですが、ピーターはミンゲラ監督が創作した人物です。ミンゲラは、このピーターの他にメレディスというこれまた監督の独自に創作した人物である大企業の令嬢を冒頭で、つまりヨーロッパ行きの船の中で登場させています。
メレディスは一目でトムを好きになり、彼に近づいてきます。そして、彼女は彼を財閥の御曹司ディッキー・グリーンリーフと思いこみます。唐突な挿話ですが、これがトムの最後の殺人につながって来るので、この出会いがラストの重要な伏線となっています。

b.LGBP

この二つの作品を際立てた最も大きな違いとは、作中のセクシャリティの扱いかたでしょうか。監督のアンソニー・ミンゲラはこの作品を映画化する際に、『太陽がいっぱい』のことはほとんど意識をしなかったといいますが、『リプリー』を観る限りにおいては、その影響下をなんとか逃れようと懸命になっているようにもみえました。むしろその違いを際立たせるために、あえて『太陽がいっぱい』においてのほのめかした程度の描写 だった同性愛的要素を、前面に押し出したのではないでしょうか。

 

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c.原作者

原作者ハイスミスは、長篇第1作『見知らぬ乗客』の発表前、百貨店のアルバイト中に見かけた女性にヒントを得て長篇を執筆しました。人妻と女性店員の恋愛を描いたこの物語は、クレア・モーガン名義で「The Price of Salt」(邦訳「キャロル」) として出版され、同性愛者の人気を呼び、百万部をこえるベストセラーとなりました。
『見知らぬ乗客』がヒッチコックにより映画化され、長篇第3作『太陽がいっぱい』もヒット映画となり、ハイスミスは一躍人気作家となります。『太陽がいっぱい』から続くトム・リプリーの物語は、のちにシリーズ化されました。
パトリシア・ハイスミスレズビアンであったことは生前から公然の秘密で、この物語の重要な背景の様ですね。


4.まとめ

結局、両作品の相違点は『太陽がいっぱい』は、トム・リプリーがディッキー・グリーンリーフを計画的に殺害し、『リプリー』は、ディッキーに謗られ詰られたトムが衝動的に殴り殺してしまったところが象徴的で、悪人トムの『太陽がいっぱい』とある意味可哀そうなホモセクショナル・トムの『リプリー』ということになりますか?!