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『四国八十八ヶ所』車でお遍路、番外編!映画『バルトの楽園』?!

四国八十八ヶ所の一番札所、竺和山(じくわざん)一乗院、霊山寺(りょうぜんじ)が登場している映画が『バルトの楽園』です。この映画の中で、霊山寺を舞台に俘虜となったドイツ兵と地域住民との交流が描かれています。

 

 目次

 

1.霊山寺

寺伝によれば奈良時代天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創されたといいます。弘仁6年(815年)に空海弘法大師)がここを訪れ21日間(三七日)留まって修行し、その際、天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、つまり和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け持仏の釈迦如来を納め霊場開創祈願をしたということです。

 

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その白鳳時代の身丈三寸の釈迦誕生仏が残っていて、また、本堂の奥殿に鎮座する秘仏の釈迦如来空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像であり、2014年に4か月間開帳されました。

室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つでしたが、天正年間(1573年~1593年)に長宗我部元親の兵火に焼かれました。その後徳島藩蜂須賀光隆によってようやく再興されましたが明治24年(1891年)の出火で、本堂と多宝塔以外を再び焼失しましたが、その後の努力で往時の姿を取り戻し一番札所としてふさわしい景観になっています。

 

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2.映画『バルトの楽園(がくえん)』

2006年公開の日本映画で、監督は出目昌伸、主演は松平健、他に國村隼阿部寛、ドイツからは、ブルーノ・ガンツなどと重厚な手堅い俳優が出演しています。タイトルの「バルト」とはドイツ語で「ひげ」の意味。主人公の松江豊寿やドイツ人捕虜が生やしていたひげをイメージしていて、エンディングがベートーベンの第九交響曲に至るところからミュージック(音楽)とパラダイス(楽園)をかけているように思われます。

 

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3.板東俘虜収容所

四国には徳島、松山、丸亀に当初収容所がありましたが、1917(大正6)年にこれら収容所を統合する形で板東収容所が開設されました。徳島や松山ではすでに収容所新聞が発行されており、それを受け継ぐ形で『バラッケ』紙が刊行されました。現在その復刻版とその日本語版を読むことができます。音楽活動も受け継がれ、ベートーヴェンの第九交響曲が日本で最初に演奏された場所として知られています。

現在の徳島県・鳴門市郊外に設置された板東収容所は、他の収容所と比べて捕虜に対する自由度が格段に大きく、遠足や海水浴も行われました。旧会津藩士の子孫だった松江豊寿収容所長の、敗者をいたわる精神の現われともいわれています。規律違反や捕虜同士のいざこざに起因する懲罰は各収容所で日常的に行われましたが、板東収容所は他の収容所に比べて驚くほど少なく、そこにも松江所長の人道的な配慮の賜物なのでしょう。

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4.『バルトの楽園』のあらすじ

時は第一次世界大戦中の1914年、日本軍は、ドイツ軍の守備隊約5千が護るドイツの極東における拠点の青島要塞へ攻撃しました。日本軍は久留米第18師団率いる約3万の部隊で拠点を包囲し、自軍にも多大な犠牲を払いながらもおよそ1週間足らずで要塞を攻略します。

 

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この戦いで敗れたドイツ軍は、クルト・ハインリッヒ総督(ブルーノ・ガンツ)以下4,700人の兵士が捕虜となり、日本国内にある12ヶ所の俘虜収容所へと移送されました。戦争が長引いてきたこともあり、ドイツ軍の捕虜はさらに全国6ヶ所の収容所へと集約されます。この際、四国にある徳島鳴門市にも「坂東俘虜収容所」が設けられ、1,000人を超えるドイツ軍捕虜を収容することとなりました。

 

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この坂東俘虜収容所は久留米に次ぐ大きな規模の収容所となっていました。坂東俘虜収容所では、所長の松江豊寿中佐(松平健)の指導の下、地元住民と捕虜が打ち解けられるような方針を進めていました。

およそ90人を超えるドイツ軍兵士は、久留米収容所から坂東俘虜収容所へと移動することになります。その中には、海軍上等水兵のカルル・バウム(オリバー・ブーツ)や一等水兵のヘルマン・ラーケ(コスティア・ウルマン)の姿もありました。坂東俘虜収容所で待っていたのは、厳しい待遇をされていた久留米収容所とはかけ離れた、自由と尊厳にあふれていた処遇でした。捕虜は外出も自由、パン焼きや飲酒、出版も自由に行え、オーケストラの演奏活動も行われていました。

ヘルマンは、所内で発行している新聞の記者として働き始め、見聞する内容を逐一母親へ手紙で報告していました。一方、カルルは久留米収容所で脱走を企て厳しい処罰を受けたにも関わらず、坂東収容所でも脱走を試みます。しかし、脱走した先で出会った村人は酷い仕打ちをするどころか、傷付いた身体を癒し、温かく保護してくれました。そんな温かい心の持ち主の坂東の人々と接するうちに、カルルは心を開いていきます。

 

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最終的に自分の足で収容所へ戻ったカルルを待っていたのは、厳しい刑罰ではなくパン職人として働くことの依頼でした。松江所長は、ドイツ人捕虜を心から信頼し、彼らの持つ様々な技術を学ぼうとしていました。また、ドイツ人捕虜たちも次第に松江所長の優しく温かい人柄に惹かれていきます。松江所長はかつての自分の父親が、敗者の会津藩士として受けた苦しみを知っていたため、敗者へのいたわりの感情を持っていました。

しかし、松江所長のやり方に不満を持つ伊藤少尉(阿部寛)が上層部へこのことを密告します。捕虜への扱いが甘いと糾弾され、収容所の予算も減らされてしまいました。そんなある日、日本人とドイツ人の混血の少女志を(大後寿々花)が収容所へとやってきます。収容所へは父親を捜しにやってきたと言いますが、志をの父親のドイツ軍兵士は、日本軍と戦うことを頑なに拒否し、そのことが原因でカルルとも喧嘩をしていました。

 

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調べを進めると、志をの父親は既に戦死しており、その後志をは、松江所長の家へと身を寄せることとなります。それと時を同じくして、捕虜が製作した作品や演奏を披露する為に世界にも前例のない「俘虜製作作品博覧会」が開催されます。そこで出会ったカルルと志をはすっかり意気投合。まるで親子であるかのような親しい交流を持つ間柄になりました。このシーンが四国八十八番ヶ所一番札所であるところの霊山寺の境内となっています

 

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1918年11月11日、第一次世界大戦はドイツの敗北により終結することとなり、戦勝に湧く徳島でしたが、坂東ではドイツ兵への気遣いによってひっそりとしていました。収容所所内では、青島の戦いを指揮していたハインリッヒが自殺未遂を図りますが、松江所長は、間一髪のところで一命を取り留めたハインリッヒに自らの会津人としての誇りを語り聞かせ、生き続けて兵士たちに希望や誇りを与えるべきだと諭します。

戦争が終結したことにより、いよいよドイツ軍兵士達も解放される時がやってきました。ドイツ軍兵士たちは、松江所長や坂東の住人に感謝の意を込めてベートーヴェンの楽曲「交響曲第九番 歓喜の歌」を演奏します。高らかに響き渡る演奏とともに、日本人とドイツ人、敵と味方の垣根を超えた大きな一体感が生まれた瞬間でした。ハインリッヒは感謝の印として松江所長に愛用のステッキを贈り、カルルはケーキ職人として日本に残るとともに、志をを引き取って育てていくことを決意しました。

 

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タイトルに「楽園(がくえん)」としていて、第九をピークに持ってくるならば、冒頭の青島攻略戦をながながと描写するより、霊山寺での地元中学生への合唱や楽器演奏指導、あの時代の日本で第九を演奏するための苦労をもっと掘り下げるべきであったのではないでしょうか。

 

5.まとめ

 

最近の凄惨な戦争と異なり、第一次大戦のころぐらいまでは、まだ武士道や騎士道が少しは残っていて、敵を敬う心意気もあったのでしょう、また、四国の住人の「お接待」にあるような優しい心意気がマッチしてこの様な物語があり得たのでしょう。