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映画『第三の男』誰もが認める戦後のレジェンド映画です!!

『第三の男』(The Third Man)は、イギリス1949年製作の、キャロル・リード監督のサスペンス映画です。第二次世界大戦直後のウィーンを舞台にした英国版フィルム・ノワールです。

光と影を効果的に用いた映像美、戦争の影を背負った人々の姿を巧みに描いたプロットで高く評価され、また、アントン・カラスのツィター演奏によるテーマ音楽や、ハリー・ライム役のオーソン・ウェルズの印象深い演技でも知られています。

 

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今の時代にもいまだに再放映されているモノクロームの名作がいくつかあって、『自転車泥棒』(1948年イタリア)、『第三の男』(1949年イギリス)、禁じられた遊び(1952年フランス)、鉄道員(1956年イタリア)などです。
これらは戦後という時代もあって、暗く悲しい物語が多いなかで、『第三の男』は今にも通じるハラハラドキドキのサスペンスとなっています。

 

目次

 

 

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1.時代背景 =映画の復興=

第二次世界大戦が終わり、イタリアでは連合軍による解放が行われたのと同時に映画の撮影が始まり、そこからネオ・リアリズモの傑作が次々に生まれることなりました。こうして、イタリアは敗戦国でありながら映画の先進地になってゆきました。

イタリアには遅れたものの、同じ時期にイギリスでもネオ・リアリズモに負けじと映画の黄金時代が始ろうとしていました。巨匠デビッド・リーンの元祖不倫映画『逢いびき』(1945年)をはじめ、ローレンス・オリビエの『ハムレット』(1949年)、パウェルとプレスバーガーの『赤い靴』(1948年)、『黒水仙』(1946年)、そしてキャロル・リードの『邪魔者は殺せ』(1947年)とこの『第三の男』です。

こうした、イギリス映画の活況には実はちゃんとした布石があって、映画が誕生して大衆文化として広がりをみせた1920年代、イギリスには映画産業といえるものはまだなく、アメリカ映画が完全にその市場を支配していました。それに対して、イギリス政府は1927年に、自国の映画を保護するためイギリス映画を強制的に上映させるという保護政策を打ち出しました。

もちろん、単なる保護だけでは良い作品が生まれるわけもなく、当初は安易なラヴ・コメディーばかりが作られていました。しかし、そんな中で、アルフレッド・ヒッチコックが『下宿人』でデビュー。さらに1932年、ハンガリー出身の映画製作者アレクサンダー・コルダロンドン・フィルムを設立。イギリス発の映画を撮って、海外にも輸出するための基盤をいち早く作りました。

残念ながら、この動きは第二次世界大戦によって中断されてしまい、戦後しばらくコルダの活動は停滞してしまのですが、彼に代わってJ・アーサー・ランク・オーガニゼーションが中心となって、イギリス映画の黄金時代を築いてゆくことになりました。映画『第三の男』は、こうした戦後のイギリス映画の黄金時代を象徴する作品といえるのです。

 

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2.舞台 =映画の主役ウィーンの街=

映画の舞台となったのは、オーストリアの首都のウィーンです。第二次世界大戦の開戦と同時にドイツと共に闘うことになったオーストリアは、ドイツが降伏してもすぐには独立国家の地位を取り戻すことができませんでした。(完全な独立は1955年のことになります)そんなオーストリアの首都を舞台に映画は展開するのですが、この混沌としたウィーンの街こそ、この映画の本当の意味の主役だったともいえるでしょう。

特にこの映画の特徴である光と影の強烈なコントラストによって映し出された街の映像の美しさ、怪しさは、『第三の男』ハリー・ライムの人物像をそのまま投影しているともいえるでしょう。(この映画はアカデミー賞の撮影賞(白黒)を受賞しています)

もともとこの映画は、製作者のアレクサンダー・コルダが「終戦後のウィーン」を舞台にした映画のための物語を書いてほしいと、作家グレアム・グリーンに依頼したことで誕生した企画でした。

 

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3.監督 =キャロル・リード

この映画の監督キャロル・リードは、1906年12月30日ロンドンで生まれました。裕福な家庭ではなかったこともあり、彼は少年時代から舞台の俳優として活躍し、その後、映画の世界に活動の場を移して、36歳で映画監督になり、『銀行休日』(1938年)、『星は見下ろす』(1939年)などを撮りましたが、ヨーロッパでの大戦が始ってしまいました。

彼は戦場に行くこともなく、戦意高揚のための映画制作に関わることになります。こうして作られたのが、ドキュメンタリー映画の『真の栄光』(1945年)や劇映画『最後の突撃』(1944年)でした。戦争終結後、やっと本格的に映画製作の現場に復帰した彼は、自身の代表作となる傑作『邪魔者は殺せ Odd Men Out』(1947年)を発表しました。

『邪魔者は殺せ』は、アイルランド独立運動のリーダーが強盗を行って警官に撃たれ、その死ぬまでの8時間をドキュメンタリー・タッチで描いた出世作で主役のジェームス・メイスンもこの作品で一躍有名になりました。続いて発表した1946年の『落ちた偶像 The Fallen Idol』(ラルフ・リチャードソン主演)もまた傑作で、『第三の男』はいよいよその頂点に達した作品となり、カンヌ映画祭でも見事グランプリを獲得しています。

 

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4.キャスティング =オーソン・ウェルズの存在感=

この作品の主役は、オーソン・ウェルズの盟友でもあるジョセフ・コットンなのですが、やはり「第三の男」を演じたオーソン・ウェルズの演技、存在感がなければこの作品の魅力は半減していたでしょう。彼の真っ黒な影の中から登場する有名なシーンは何度見てもゾクゾクさせられますし、彼ならではの台詞にも魅力があります。

例えば、この有名な台詞。「イタリアではボルジア家三十年の圧政の下に、ミケランジェロダヴィンチやルネッサンスを生んだ。スイスは五百年の同胞愛と平和を保って何を生んだか。鳩時計だとさ」です。

「混沌」こそが芸術の源泉であるという思いをこめて、この台詞が生まれたのでしょうが、もともとこの台詞は脚本にはなくオーソン・ウェルズ自身が考え出したのだそうです。彼にとって、この映画への出演は、自らの作品を撮んがための資金づくりのバイトだったのでしょうが、それでもこれだけの仕事をしてしまうのですから、とんでもない才能です。彼の場合、当時アメリカで吹き荒れていた「赤狩り」の影響により、ヨーロッパへ追われていた状況になったのですが、それだけの才能に活躍の場を与えなかったアメリカ映画界は実に惜しいことをしたことになります。

 

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5.音楽 =アントン・カラス

もう一人、この映画には重要な主役がいて、それは地元オーストリアを代表するチター奏者アントン・カラスです。

この映画は全編チター演奏だけの音楽になっていて、オープニングではチターの弦の部分だけが大写しになった映像が使用されています。ここまでこの楽器にこだわったのは、いかにこの音楽がこの作品にとってなくてはならないものなのか、監督自身が判断したからでしょう。

そして、確かにこの映画の音楽は「映画音楽」の枠を越えて、スタンダード・ナンバーのひとつになった感があります。しかし、多くのスタンダード・ナンバーが歌として残ってゆくのに対し、この曲のようにインストロメンタルとしてスタンダード化した例はそう多くはないでしょう。他に思い浮かぶのは『禁じられた遊び』の「愛のロマンス」、『スティング』の「ジ・エンターテイナー」ぐらいになります。

 

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6.ラストシーン

グレアム・グリーンは『第三の男』を、「読んでもらうためにではなく、見てもらうために書いた」と言っています。グリーンに、ウィーンを舞台にした物語をキャロル・リードのために書いてほしいと頼んだのは、名プロデューサーのアレクサンダー・コルダです。

映画ファンなら白黒の『落ちた偶像』(1948)という名作を知っているでしょうが、これがコルダ、グリーン、リードが生み出した忘れがたい第1作でした。コルダはふたたびグリーンにこの黄金コンビで映画をつくりたいと切り出したのでした。

グリーンは最初からシナリオを書かずに、まず物語を仕上げたいと言いました。映画のことを気にせずに物語を書きあげること、それがグリーンのやりかたでした。このおかげで、私たちはグリーンの原作とグリーンとリードが練り上げたシナリオ、および非の打ちどころのない映像との決定的な違いと微妙な違いを克明に比較できるようになったのですから、このグリーンの英国紳士的やりかたに感謝しなければなりません。

原作と映画が違うところは、いくつもあります。リードとグリーンは原作を何度も書き換え、何度も編集しつづけました。

まず大衆作家のマーティンズ(ジョセフ・コットン)がイギリス人からアメリカ人に変わった。これでアメリカ人の陽気な単純とヨーロッパ人の気取りと退廃とが対比されるようになった。ハリーの恋人であったアンナ・シュミット(アリダ・ヴァリ)もハンガリー人からチェコ人に変更されました。こういう役柄の“人種変更”は、日本映画ではまず考えられません。ヨーロッパ映画を見るたのしみがこのへんにもありますね。

原作では語り手はハリー・ライム事件を追うイギリス警部キャロウェイ大佐なのですが、映画では作家マーティンズになりました。紅茶を飲むときでさえ大英帝国を忘れないクイーンズ・イングリッシュとハンバーガーをほうばりながら喋る屈託のないアメリカ英語との対比が、こうして強調されています。

決定的な違いは有名なラストシーンに劇的に集約されています。原作では、警部とともにハリーの埋葬を終えたアンナが誰にも挨拶せずに並木道を歩き始めると、警部に車を勧められたマーティンズがこれを断ってアンナを追い、やがて二人が肩を並べて歩きだします。「彼は一言も話しかけなかったみたいだった。物語の終わりのようにも見えていたが、私(警部)の視野から消える前に、彼女の手は彼の腕に通された」というふうに終わっています。

ところが、よく知られているように、映画では警部とともにマーティンズを乗せた車が、冬枯れの並木道のアンナをいったん追い越し、しばらくしてマーティンズが降りて、カメラが並木道をまっすぐに映し出すと、遠くにアンナが見えました。マーティンズが道端でそれを待っているあいだ、カメラはしだいに近づくアンナと舞い散る枯れ葉を撮りつづけているのですが、マーティンズの傍らを過ぎるアンナは一瞥もくれずにそのままカメラに向かって歩いていって、そこでチターがジャランと鳴って、幕切れなのです。

グリーンはこのラストシーンの変更を、「これはリードのみごとな勝ちだった」と脱帽したそうです。

 

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ラストシーン

7.まとめ

オーソン・ウェルズ登場のシーンと最後の並木道のシーンという奇蹟的な名シーンをわずか105分の映画に同居させた奇蹟的な作品。他にも印象に残る名シーンの数々を生み出したことが、もはやそのストーリー性の価値さえも超える不変性を創り上げました。そして、アリダ・ヴァリの美しさ。シャネルとヴァリの有機的結合が女に初めてトレンチコートを選択させたのでした。.