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映画『七人の侍』言わずと知れた日本映画のレジェンドです!!

この映画は、1954年(昭和29年)の4月に公開された東宝の製作・配給の映画です。監督は黒澤明、主演は三船敏郎志村喬で、日本映画の金字塔と言われる、207分の超大作です。

 

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当時の普通の作品の7倍ほどの製作費をかけ、何千人ものスタッフ・キャストを動員し、1年余りの撮影期間がかかりました。興行的には成功して、700万人の観客動員を記録しました。
1954年のヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞しています。

目次

 

 

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1.プロローグ

 近年、BBCが発表した外国語映画トップ100に選ばれた24ヶ国・19言語の作品のうち、フランス語が27本、中国語が12本、日本語とイタリア語が11本でした。ここで最多投票数を獲得し1位に輝いたのは、黒澤明監督の『七人の侍』で、4位にも黒澤監督の『羅生門』が選ばれています。

黒澤作品並びに、日本映画、世界映画の最高傑作と評され、また、世界映画史上、他の映画に最も影響を与えている作品といえ、国内外で60年の月日を経ても評価され愛され続けている、まさに映画のマスターピースなのです。


2.概要

この時代の大作映画の常として、前半部と後半部の間に5分間の途中休憩を含む上映形式をとっています。
前半部では物語の発端、侍集め、戦の準備となって、後半部では野武士との本格的な決戦が描かれていますが、構成的には「侍集め」「戦闘の準備(侍と百姓の交流)」「野武士との戦い」が時間的にほぼ均等で、見方によると、この三部形式であるということもできます。

綿密な時代検証の上で書かれたシナリオを元に、黒澤明が初めて複数のカメラで撮影するマルチカム方式と、望遠レンズによるパン・フォーカスを採用し、脚本、撮影技術、現場での妥協のない演出が見事に絡み合い、観るものを掴んで離さない突出した作品となっています。

この「七人の侍」以前は、複数の主人公が活躍する場合、最初から主人公たちが一緒に行動している設定が多のですが、しかし本作品では、まず仲間探しから始まるところに面白さがあり、後に多くの映画が、その構成を真似ています。


3.あらすじ

麦の刈入れが終る頃、野伏せりがやって来ます。去年襲われた村人は恐怖におののいました。闘っても勝目はないし、負ければ村中皆殺しにされます。村を守るには侍を傭うことと、長老儀作(高堂国典)の決断によって茂助(小杉義男)、利吉(土屋嘉男)等は侍探しに出発しました。

 

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智勇を備えた歴戦の古豪島田勘兵衛(志村喬)の協力で片山五郎兵衛(稲葉義男)、久蔵(宮口精二)、林田平八(千秋実)、七郎次(加東大介)、岡本勝四郎(木村功)が選ばれました。菊千代(三船敏郎)は家族を野武士に皆殺しにされた百姓の孤児で野性そのままの男で、村人は特に不安を感じていたが、菊千代の行動によってだんだん理解が生れていきました。

 

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村の防衛体勢は整えられて戦闘訓練が始ります。刈入れが終ると野武士の襲撃が始り、物見の三人を久蔵、菊千代が倒しました。利吉の案内で久蔵、菊千代、平八が夜討を決行し火をかけました。山塞には野武士に奪われた利吉の恋女房が居ましたが、彼女は利吉の顔を見ると泣声をあげて燃える火の中に身を投じました。この夜敵十人を斬ったが、平八は種カ島に倒れてしまいました。

夜が明けると野武士は村を襲って来ました。侍を中心に百姓も鍬や丸太を持って村を死守しました。美しい村の娘志乃(津島恵子)は男装をさせられていたましが、勝四郎にその秘密を知られ二人の間には恋が芽生えた。決戦の前夜、志乃は勝四郎を納屋に誘い二人の体はもつれ合って藁の中へ倒れました。

翌朝、13騎に減った野武士の一団が雨の中を村になだれこんできました。斬り込んだ侍達と百姓達は死物狂いで闘い、久蔵、五郎兵衛が倒れました。怒りに燃えた菊千代は最後の一人を屋根に追いつめましたが、敵の弾をうけ、差しちがえて討死しました。

 

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野武士は全滅しましたが、百姓も数人倒れ、7人の侍の中4人が死にました。新しい土鰻頭の前に立つ勘兵衛、七郎次、勝四郎は、六月の爽やかな風の中で働いている百姓達を静かに眺めました。志乃は何かを振り捨てるように大声で田植唄をうたっていた。「勝ったのはあの百姓達だ。わし達ではない。」田の面をみながら勘兵衛がつぶやきました。

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4.『七人の侍』登場人物

1)島田勘兵衛(志村喬

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冷静沈着な初老の浪人で7人のリーダー格です。効率を重視して行動できる戦略眼の持ち主で、モチーフは剣聖と讃えられる上泉信綱のようです。
納屋に立てこもった強盗を、無償で撃退して子供を助けました。しかもその為に頭を丸めて坊主の扮装をするなど、当時の認識では隠居、引退の意味で、普通の侍ならば絶対に嫌がります。それを見ていた百姓たちの懇願され、参加を決めるとメンバーの募集選定から携わることになりました。


2)菊千代(三船敏郎

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山犬のような荒々しい自称・侍、実は百姓の出です。
当初は他の侍たちからも軽んじられ、度々問題を起こしていましたが、百姓と侍たちの間を取り持つ働きぶりから、徐々に侍のひとりとして認められていきます。


3)岡本勝四郎(木村功

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若い半人前の浪人。強盗を退治した勘兵衛の手腕に惚れ込み、半ば押しかけ気味に弟子となります。勘兵衛は子供を連れて行く気はないとしていたが、平八の「大人扱いしてやれば子供は大人以上に働く」との言葉を受け、同行を認めました。やがて百姓の娘、志乃と恋仲になりますが。


4)片山五郎兵衛(稲葉義男)

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穏やかで物腰が柔らかく、勘兵衛の参謀役です。手練の者を集めるべく勘兵衛の仕掛けた試しを「ご冗談を」の一言で見破る手練れ、勘兵衛の人柄に惚れ込んだという理由で野武士との戦いへの参加を決意しました。


5)七郎次(加東大介

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勘兵衛の元部下で、負け戦の後、物売りをしていました。勘兵衛からは「古女房」と称され、かつての合戦で幾度と無く死ぬような目にあいながら、それに対して「別に何も思わなかった」というなど、内面は極めて冷静沈着で、勘兵衛に理屈抜きに従います。


6)林田平八(千秋実

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愛想がよく明るくて人懐こい人物。茶屋の裏手で、飯代のかわりにと薪割りをやっていた所、その気持ちの良い性格を五郎兵衛に見込まれて一行に加わりました。腕は「中の下」と称されながらも、辛い時には必要な男だと評価され、戦の時には旗が無いと寂しいとの事から「○○○○○○△た」の旗を作りました。


7)久蔵(宮口精二

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物静かな凄腕の剣客で、口数は少ないが根は優しい。勘兵衛からは「自らを鍛えあげる事に凝り固まった凄まじい男」と評価されています。町中で武芸者と果たし合いを行い、これを一刀の元で表情一つ変えずに切り捨てました。その腕を見込んだ勘兵衛に請われ、戦へと向かいます。モチーフは宮本武蔵柳生十兵衛ぐらいでしょう。


5.エピソード

1)脚本つくり

黒澤明橋本忍、小國英雄の3名は熱海の旅館「水口園」に投宿して共同執筆に入りました。3人は45日間「水口園」に閉じこもって脚本を書いていたのですが、その緊迫感はお茶を運びに来た女中も怖くて声をかけられないほどであったそうです。七人の侍のキャラクターのイメージは大学ノート数冊にびっしりと書かれていたといいます。主に黒澤と橋本が同じシーンを競作(コンペ)したものを小國がジャッジし、出来の良かった方が採用されるという、極めてシビアな執筆活動でした。


2)三船敏郎

落ち武者狩りをする百姓の本性を知って、複雑な心境の侍たちに菊千代が怒りをぶちまけるシーンで、三船は黒澤に「監督、俺は百姓なんだから、青っ洟にしたほうがいいでしょう」といい、黒澤監督はその意気込みで演じてくれればいい芝居になると思い、「いいね」と応じました。すると三船は本当に涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしてしまい、黒澤監督は大いに圧倒され、感動するも「三船ちゃん、本当に素晴らしい演技だったけど、ちょっと汚く見えるから撮り直すね」といってリテイクしました。
三船はこの他にも映画冒頭で侍たちを付け回すシーンで「立ち小便でもしましょうか?」など型破りなアイデアをたくさん出しましたが、黒澤監督が笑いながら却下しました。


3)エキストラ

この先品には町を歩く浪人役で無名時代の仲代達矢と、宇津井健も出演しています。出演の決まった仲代は毎朝早くに撮影所に出掛け、家に帰る頃には足の親指と人差し指の間が(鼻緒で)擦れて血だらけになっていて、仲代は加地健太郎に「いやぁ、黒澤監督ってのはすごいよ、今日も一日歩かされた」と語っています。浪人が歩く数秒のカットだけで、黒澤監督は何日もリハーサルを重ねて撮影に臨んでいました。


4)雨中の戦い

当時のハリウッドにおける娯楽アクション映画といえば西部劇がまだ幅を利かせている頃で、対決シーンというと炎天下の砂塵が吹く中での対決が主流となっていて、豪雨の中での合戦シーンというそれまでになかったシチュエーションに、ハリウッドだけでなく世界中の映画関係者や映画ファンを驚かせました。
黒澤監督はこの雨のシーンについて、「アメリカの西部劇では常に晴れている、だからこそ雨にしようと思いついた」と語っています。

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5)「7」という数字

前述のように、パクリかオマージュかとの玉石混交で「7人」を冠する多数の映画が出てきました。しかしながら、この作品ほど「7人」全員にみごとに性格と役割が振り当てられているものは皆無です。ほとんどが3・4人目ぐらいが主要で、あとは数合わせで並んでいるだけのものです。

では、本来の由来は、1週間を7日と定めたことからもいわれているように、旧約聖書から生まれた幸運の定義です。7日は神が天地を創した日数といわれ、7日目を安息日として神をたたえる日と定めたことからも、聖なる数字として定着しました。

また、数学者ピタゴラスは、完全数3と世界数4を足した7の数字を宇宙の数字と定義付けています。ヒポクラテスは人間の成長を7歳に区切りし、7歳までを幼児期、14歳までを児童期、21歳までを少年期、28歳までを青年期、49歳までを成人期、 56歳までを中老年期、63歳までを老年期としています。

ラッキー7と呼ばれるようになったのは、1885年9月30日のシカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・カブス)の優勝がかかった試合での出来事で、7回にホワイトストッキングスのある選手は平凡なフライを打ち上げたのですが、このフライが強風に吹かれてホームランとなりました。このホームランによってホワイトストッキングスは優勝を決め、勝利投手はこの出来事のことを「ラッキーセブンス」(幸運な第7回)と表現しました。

「7」という数字にはやはり何かのチカラが宿っているのかもしれませんね。


6.まとめ

アメリカでは2時間を超える映画はヒットしないとの話もある中で、207分と、とにかく長い映画ですが、それを全く感じさせません。レジェンドのレジェンドたる所以なのでしょう。