凸凹玉手箱

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映画『どら平太』役所広司のまさに痛快時代劇です!!

 
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 この映画『どら平太』は、監督市川崑、主演は役所広司で、2000年に公開されました。

 

目次

 

 


1.制作

1969年に市川崑黒澤明木下惠介小林正樹の4人によって「世界の話題になる映画を作ろう」と結成された、映画企画・製作グループ「四騎の会」が結成され、山本周五郎の「町奉行日記」を元に映画を製作しようと共同してシナリオを執筆しました。
オリジナル脚本には橋本忍も携わっています。 その後、この企画は宙に浮いたままになっていましたが、市川の監督でオリジナル脚本を大幅に変更して制作しました。


2.ストーリー

1)プロローグ

これは「或る小藩」の物語です。この小藩では3人もの町奉行が、うやむやな理由で次々と辞職していました。書き役の中井勝之助(うじきつよし)と市川六左衛門(尾藤イサオ)がそんな話をしていた頃、望月小平太(役所広司)なる新任奉行が江戸から赴任してくるのでした。しかし、この小平太なる男は、10日経っても出仕してきませんでした。この男、武芸に秀でていたものの、その行状は放埓無頼を極め、「どら平太」という渾名がついていました。


2)悪評

しかしながら、実は「どら平太」こと小平太は、この小藩に着いていました。小平太はこの藩の「壕外」(ほりそと)と呼ばれる密輸に売春、賭博、殺傷など、あらゆる悪行が横行する治外法権化した地を、浄化するためにやってきていました。

小平太は10日の間、密かに遊び人になりすまして、壕外に潜入調査をしていました。小平太はその記録を徒歩奉行で友人の安川半蔵(片岡鶴太郎)に見せました。安川は「よくここまで…」と驚きました。安川は「お前の悪評が忽ち家中に広がった。それが仙波の仕業かも…」と小平太に言うと、小平太は「そうだよ。俺が頼んだ。仕事がやりやすいからさ」と言い放つのでした。

悪評も小平太自身が、幼馴染の大目付・仙波義十郎(宇崎竜童)に頼み、故意に流させたものでした。安川は呆れて、小平太を諫めましたが、小平太には馬耳東風でした。普通の奉行は奉行所の隣の屋敷に住むのですが、小平太は仕事がしにくいと言い、安川に頼んで、昼夜問わず出入り自由な杢兵衛(3代目江戸家猫八)の宿屋で暮らすことにしました。


3)お墨付き

この小藩では国許の財源を補うために、壕外から莫大な上納金を集めていました。藩の重職者たちはあろうことか、その上納金を密かに懐に入れて、壕外を束ねる3人の親分たちの無法振りを黙認していました。それを暴こうとした町奉行たちは、次々と辞職に追い込まれていたのす。そんな中へ、小平太は江戸から来たのでした。
小平太は登城し、城代家老・今村掃部(大滝秀治)を始めとする藩の重職者たちが居並ぶ評定の席に着きました。小平太は挨拶し、着任の目的が濠外の問題を解決するためだと告げました。
しかしながら重職者たちは「濠外の問題は古き慣習」「濠外は厠のような不浄のもの。不浄の場所を無くすことは自然の摂理に反する」と言い出し、小平太を無礼者と罵り、軽蔑し、見下し、評定を終えようとしました。小平太はそんな重職者たちを尻目にお墨付きを手にし、上席に座り直しました。
小平太は「上意!、壕外の大掃除をする」と宣言し、「決して異議不服を唱えざるよう申し付ける」と全権を委任された藩主のお墨付きを見せつけました。重職者たちはひれ伏すしかありませんのでした。


4)潜入捜査

小平太は仙波の流した悪評が効きすぎて、藩内の血気盛んな若手藩士から命を狙われていました。しかし、小平太はそんな事にはどこ吹く風でした。小平太は「当たって砕けろ」と言って、本格的に濠外に入り、浄化のため調査を始めました。

小平太は奉行に出仕もせずに、仙波から金を工面してもらいながら、壕外に入り浸り、酒に博打に女遊びと豪遊しまくりました。小平太はその気風の良さから忽ち、親分たちの子分である伝吉(本田博太郎)たちを味方に引き込んでいきました。

 

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小平太は子分の伝吉たちより情報を聞き集めました。伝吉や子分たちも、親分たちの余りの無法ぶりに不満を抱いていました。大河岸の灘八(菅原文太)、巴の多十(石倉三郎)、継町の才兵衛(石橋蓮司)という3人の親分たちは、お互いの生業をしっかりと分けて、抗争が起きないようにしていました。小平太はそれを聞き、作戦を練り直す必要に迫られてきました。


5)二つの危難

そんな中、江戸から小平太を慕って芸者こせい(浅野ゆう子)がやって来ました。気の強いこせいの追及には、小平太も困っていました。そこへちょうど安川が現れました。こせいは安川を招き入れて、彼に「どちらの言い分が正しいか判断してください」と命じました。安川は有無もなく、その役目になってしまいました。

 

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こせいは7年の間、小平太と深い恋仲でありました。こせいは「国許で身を固める」と嘘をついて江戸を去った小平太を連れ戻そうとやって来たのでした。安川は、小平太を江戸に連れ戻そうとするこせいに「こ奴には国許での仕事がある」と言って、こせいを制しました。
こせいが厠で中座している間に、小平太は「重職たちがお前の壕外入りを知り、喚問しようとしている」と安川から聞き、新たな策を進めるため、こせいを安川に託し、その場から逃げ出しました。

逃げ出した小平太は、町奉行という正体を明かして、多十、才兵衛と2人の親分たちの元に乗り込みました。小平太は二人を、巧みに口八丁手八丁で丸め込んで、兄弟分の盃を交わしました。2人から話を聞いた大親分・灘八は、これまでの町奉行とは桁外れに違う小平太を危険視し、彼を消そうと考えました。一方、重職者たちは小平太の存在を危険視し、口封じのために始末しようと画策していました。


6)敵地へ

小平太は仙波との密会先の寺に隠れました。小平太はそこで仙波と会って、命が狙われていることを聞きました。小平太は寺から壕外に向かう途中で、重職たちの放った刺客に襲われましたが、これを返り討ちにしました。

一方、こせいは小平太を探すために、壕外に向かいました。こせいはそこで偶然、御禁制品の抜け荷をしている現場に遭遇してしまいました。こせいはあわや殺されそうになりましたが、そこに小平太が現れました。小平太はその無法者たちをあっという間に殴り倒して、こせいを助け出しました。小平太はこせいを、再び杢兵衛の隠れ宿に預けることにしました。

寺に戻った小平太は、灘八の使いの子分から彼の屋敷に招かれました。小平太は大親分・灘八の屋敷に乗り込みました。そこでは灘八、多十、才兵衛と3人の親分が待ち構えていました。

 

小平太は灘八と兄弟盃を交わそうとしましたが、灘八は断って、逆に多十と才兵衛が交わした兄弟盃を小平太に返上させました。灘八曰く「武家の次男坊は実力と才があっても家は継げない。殺すには惜しいお人だ。私の後、この濠外を仕切っては」と、小平太を養子に迎えて、取り込もうとしました。それを聞いて小平太は「喰えねえ、爺だ。それじゃ、殺さないでくれ。お前たちを死罪にしたい」と半笑いして返答しました。


死罪を申し付けられた灘八たちは「生きて返すな」と言って、数十人の子分たちに小平太を襲わせました。しかし、子分たちは全て、小平太に峰内で叩きのめされてしまいました。鬼神のような強さの小平太に、灘八たちは潔く観念しました。小平太は灘八たちに翌日、城中へ出頭を命じました。

 

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7)懐柔

そして翌日、灘八ら三人の親分は城中に出頭してきます。小平太は3人の親分へ、死罪の代わりに壕外からの永代追放を言い渡しました。3人の親分はその処分を受け入れます。すると、小平太は裃を脱いで、急にフランクになり相談を持ち掛けました。

 

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小平太は藩の重職者たちを追及するために、3人の親分が既に処分した金銭物品取引書を作成するように頼みました。それには、さすがの灘八も「お奉行の悪巧みは、俺たち以上だ」と感心して、依頼を受けました。


8)真の黒幕

小平太は仙波と会って、事の次第を全て報告しました。小平太は灘八に「藩の重職と我々との仲介役がいる。その男は頭も切れ、人望もある。その男を始末しない限り、濠外は綺麗にならない」と聞いていたことを、仙波に告げました。小平太は灘八の言う真の黒幕の「その男」とは、仙波だと指摘しました。見事に小平太に指摘された仙波は、仲介役であったことを認めます。仙波は全責任を負って、小平太の目の前で潔く切腹して果てました。

 

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幼馴染の仙波を失った小平太は、城に乗り込んで、3人の親分が書いた金銭物品取引書を重職者たちに見せつけました。重職者たちは恐れおののきました。小平太は重職者たちに「この文書を処分する代わり、藩政から退いていただきたい」と迫ります。重職者たちは次々に辞職を明言しました。

目的の壕外の大掃除を終了した小平太は、安川に辞表届けを手渡して、藩主からのお墨付きを破り捨てようとしました。驚いた安川に、望月は「これは俺が書いた偽物だ」と答え、破り捨てました。


9)エピローグ

小平太は江戸に戻ろうと城から出たところに、こせいが現れました。小平太はこせいから逃げるために、駄馬を買い、駄馬を走らせました。その後をこせいは追いかけました。
書き役の中井は、小平太の辞表を受け取って、市川に「着任から退任まで一度も出仕しなかったのは前代未聞のことだろうな」と言い、日記を閉じました。

 

 


3.四方山話

1)キャッチコピー

「これぞ時代劇!これぞ映画!映画の面白さここにあり!〜痛快!!『どら平太』」というキャッチコピーの通り、見事な殺陣シーンも盛り込まれた痛快エンターテインメント時代劇です。


2)幻の共作

パンフレットによると、脚本は市川崑黒澤明木下恵介小林正樹の共作で、当初は脚本を4分割、それぞれが監督して一本の映画にする、という無体な計画だったらしく、当然のことながら計画は頓挫、他の三人が亡くなって、もう大丈夫だろうと思ったのかどうか、市川崑単独監督で幻の企画が実現しました。


3)撮影

1999年2月15日、広島県福山市みろくの里でクランクインし、みろくの里は城下の町、橋が主なセット。みろくの里での撮影は17日までの三日間でした。

2月22日からは、松竹京都映画撮影所でのセット撮影と並行して京都北部山室、広沢池、相国寺滋賀県大津市三井寺などでロケとなりました。松竹撮影所の主なセットは城内の広間、灘八の座敷でした。

最大の見せ場である五十人斬りの撮影は3月20日で、あと10人倒せばカットになる寸前に役所広司が畳で足を滑らせ転倒、左足に肉離れを起こし撮影が中断し、4月4日に撮り直しました。

4月5日クランクアップで、実質撮影日数40日、全987カット。市川作品の中でも最短日数でスケジュールをこなし、1日平均50カットを撮り続けた老監督のタフネスぶりにスタッフ一同賞賛しました。


4.まとめ

ちょっとリスクのある正義派のストーリーですが、それを愉快に描いてリスクをぼかしています。なので、危ない内容なのに逆に安心して見られました。
どちらかというとお茶の間向けテレビドラマの延長で「水戸黄門」や「遠山の金さん」と、基本的には同じ、庶民並みの風体で市井に絡みながら、実は“お墨付き”を得ている権力者。ここでは、公文書偽造ですが。
金もあり、腕も立つ、細かいことはすっ飛ばして面白い映画でした。