この映画『市民ケーン(Citizen Kane)』は、オーソン・ウェルズの監督デビュー作で、1941年公開のアメリカ映画です。ウェルズは監督のほかにもプロデュース・主演・共同脚本も務めました。世界の映画史上のベストワンとして高く評価されています。
目次
1.紹介
新聞王ケーンの生涯を、それを追う新聞記者を語りてに、彼が取材した関係者の証言を元に描き出していきます。
主人公のケーンがウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにしていたことで、ハーストによって上映妨害運動が展開され、第14回アカデミー賞では作品賞など9部門にノミネートされながら、脚本賞のみの受賞にとどまりました。
しかし、パン・フォーカス、長回し、ローアングルなどの多彩な映像表現などによって、年々評価は高まり、英国映画協会が10年ごとに選出するオールタイム・ベストテン(The Sight & Sound Poll of the Greatest Films of All Time)では5回連続で第1位に選ばれ、AFI選出の「アメリカ映画ベスト100」でも第1位にランキングされています。1989年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録されました。
2.ストーリー
1)プロローグ
1941年のフロリダ、未完のままの大邸宅「ザナドゥー」で、雪景色の飾りのガラス玉を握りながら、“バラのつぼみ”という言葉を残し、メディア王チャールズ・フォスター・ケーン(オーソン・ウェルズ)が生涯を終えました。
ケーンの死後に、彼の生涯をまとめた記録映画を企画するプロデューサーのロールストン(フィリップ・ヴァン・ツァント)は、他に類を見ないケーンの人物像の謎を解く鍵が、”バラのつぼみ”という言葉に隠されていることを確信します。
ロールストンは、ニュース記者のジェリー・トンプソン(ウィリアム・アランド)に、ケーンのマネージャーであるバーンスティン(エヴェレット・スローン)や、二度目の妻スーザン・アレキサンダー(ドロシー・ カミンゴア)に会い、真相を解明するよう指示を出しました。
トンプソンは、最初にスーザンに会いますが、彼女は落ちぶれたクラブ歌手でしかなく、その場から追い払われました。
その後トンプソンは、ケーンの後見人だった、ウォルター・パークス・サッチャー(ジョージ・コーロリス)が建てた図書館で、彼の手記を閲覧しました。
2)ケーンの幼少期
1871年、下宿屋を営むケーンの母親メアリー(アグネス・ムーアヘッド)が、下宿代の肩代わりに受け取った権利書で思わぬ財産が入ります。
メアリーは、ケーン自身が、サッチャーの銀行の管理下で養育されることに同意しますが、父親ジム(ハリー・シャノン)は、息子が両親から引き離されることに反対しました。
自分一人だけが旅立つと聞いたケーンは嫌がりますが、メアリーは財産目当てでなく、実は息子を虐待する父ジムから彼を遠ざけるために、已む無くしたことだったのでした。
3)青年ケーン
25歳になり、後見人サッチャーから財産を受け継ぎ、世界で6番目の富豪になった青年ケーンは、以前から興味を持っていた、新聞業界に進出しようとします。
そしてケーンは、”ニューヨーク・インクワイアラー”という弱小新聞社を買取りました。
ケーンは、親友の演劇評論家ジェデダイア・リーランド(ジョゼフ・コットン)やバーンスティン(エヴェレット・スローン)と共に、精力的に活動を始め、過激な言動や強引な手法でみるみる部数を増やします。
サッチャーは、ケーンの暴走に苦言を呈しますが、彼は聞く耳を持たず、信念に向かって突き進んで行きました。
しかしながら、1929年の冬、大恐慌の影響もあり、ケーンは破産し全ての事業を放棄することになります。
4)新聞王
閲覧の制限時間となり、図書館を出たトンプソンは、バーンスティンのオフィスに向かいました。
トンプソンは、バーンスティンも”バラのつぼみ”が何かは分からないことを確認し、彼にリーランドに会うことを勧められながら、新聞社を立ち上げた当時の話を聞きました。
”ニューヨーク・インクワイアラー”に乗り込んだケーンらは、編集長のハーバート・カーター(アースキン・サンフォード)に迎えられ、彼のオフィスで寝泊りして仕事を始めることになりました。
6年後、ライバル社の記者を全て引き抜くなど、形振りかまわぬ戦略で、ケーンは新聞業界に革命をもたらし、驚異的な勢いで部数を増やします。
その後ケーンは、報道業界全てを牛耳るメディアの帝王に君臨することになりました。
やがて、ヨーロッパ旅行から帰ったケーンは、大統領の姪のエミリー・モンロー・ ノートン(ルース・ウォリック)と結婚しました。
バーンスティンは、その後うまくいかなかったエミリーが、”バラのつぼみ”ではないだろうかということを、トンプソンに伝えました。
5)運命の出会い
その後トンプソンは、老いのため病院にいるリーランドを訪ね、ケーンとエミリーの結婚生活が壊れていく様を彼から聞きます。
そしてリーランドは、ケーンとスーザンとの出会いをトンプソンに話し始めました。
街角で、馬車の刎ねた泥水を浴びてしまったケーンは、歯痛に悩むスーザンに笑われてしまいます。スーザンは、泥だらけのケーンを気の毒に思い、自宅に招き入れました。
ケーンは、スーザンの歯痛を忘れさせようと、彼女を笑わせて楽しいひと時を過ごしました。スーザンは、堅物だと思っていた有名人のケーンが、人間味に溢れ、自分の夢などに興味を持ってくれることに嬉しく思うのでした。
その後ケーンは、スーザンとの時間で心の安らぎを得るようになり、やがてケーンは、知事選に出馬を決め、政界に進出しようとしました。
6)挫折と屈辱
ケーンは、ライバルのジェームズ・W・ゲティス(レイ・コリンズ)を容赦なく攻撃し、選挙戦を優位に進めます。
しかし、オペラ歌手としてケーンが援助していたスーザンとの関係を、ゲティスに知られ脅迫されてしまい、ゲティスは、ケーンとスーザンとのスキャンダルを報じられたくなければ、出馬を撤回するよう彼に迫りました。
その場に同行したエミリーは、息子のために出馬を断念するよう、ケーンを説得して帰ろうとします。しかし、ケーンはそれを拒否し、戦うことをエミリーとゲティスに告げるのでした。
そして、エミリーはケーンの元を去り、スキャンダルは暴露され、選挙を諦めなかったケーンは、結局、落選してしまいました。
さすがのリーランドも、自らを愛し自分のルールだけで行動するケーンを批判し、シカゴ支局への移動を申し出ました。
その後ケーンは、初めて味わう屈辱を晴らすかのように、スーザンと結婚し、彼女に全てを捧げるのでした。ケーンは、スーザンのために劇場まで建設して、彼女を歌手として大成させようとします。
しかし、彼女の評判は一向に上がらず、ケーンの自己満足にしか過ぎなかったのです。
リーランドの酔いつぶれながら書いた、スーザンを酷評した原稿を見たケーンは、その続きを自分で書きながら彼をクビにするのでした。
7)二度目の別れ
看護師を呼んだリーランドと別れたトンプソンは、再びスーザンの元に向かい、今度は質問に応じてもらえました。
”インクワイアラー”までが、自分の歌を酷評したことに激怒したスーザンは、舞台を降りることをケーンに告げますが、彼は自分のプライドのためにそれを許しません。
ケーンは、”インクワイアラー”の紙面上で、スーザンの各地での公演を絶賛し、彼女は、その期待への重圧で自殺未遂を起こしてしまいます。
そしてケーンは、スーザンのために”ザナドゥー”を建設し、二人だけの生活を始めるのでした。
しかし、愛もないケーンの言いなりの生活に絶望したスーザンは、彼の元を去っていきました。
その後は財産もなくしたといったスーザンは、”ザナドゥー”に行くと言うトンプソンに、ケーンの執事だったレイモンド(ポール・スチュアート)に会うよう言いました。
8)執事の見たもの
後日、”ザナドゥー”でレイモンドに会ったトンプソンは、”バラのつぼみ”についての心当たりを、彼から聞かされます。
スーザンが去り、失意のケーンは部屋の装飾品を破壊してしまいました。
しかしケーンは、雪景色のガラス玉を見つけて、”バラのつぼみ”・・・とつぶやき、涙しながらそれを持ち去りました。
そしてケーンは、1941年に孤独な死を遂げるのでした。
9)エピローグ
結局、手がかりは見つからず、トンプソンはザナドゥーを去ろうとします。屋敷では、大量の美術品の山や、不用品の処分が行われていました。
使用人が、焼却炉でガラクタを燃やしている時、ケーンが両親と暮らしていた頃に遊んでいた、木のソリが投げ込まれています。
そして、燃える炎の中、ソリから”バラのつぼみ”の文字が浮かび上がるのでした。
3.四方山話
1)オーソン・ウェルズ
オーソン・ウェルズ(1915年5月6日生、1985年10月10日没)は、アメリカ合衆国の映画監督・脚本家・俳優。映画『第三の男』などでの個性的な演技で名優として知られたましたが、映画監督としても数々の傑作を残しました。
とくに25歳で初監督した本作『市民ケーン』は、撮影監督グレッグ・トーランドとともに数多くの斬新な撮影技法を案出したことから、現在でも映画研究の分野できわめて高く評価されています。
その後も『黒い罠』『上海から来た女』など新しい映画言語を盛り込んだ作品を監督し、全アメリカ映画史を通じて最も重要な映画作家の一人とも呼ばれています。
日本では、1976年に第三の男をBGMとした、ニッカウヰスキー・G&GのCMに出演しました。
2)出演者とスタッフ
主要キャストにはマーキュリー劇団の俳優であるジョゼフ・コットンや、アグネス・ムーアヘッドらを起用し、彼らはこれが最初の映画出演となりました。
主人公のケーンはウェルズ本人が演じ、当時25歳でありながらケーンの青年時代から晩年までを演じています。また、アラン・ラッドとアーサー・オコンネルも新聞記者の役で端役出演しています。
スタッフでは、撮影を『嵐が丘』(1939年、ウィリアム・ワイラー監督)や『怒りの葡萄』(1940年、ジョン・フォード監督)などを手がけたグレッグ・トーランドをMGMから借り受けて起用したほか、音楽をウェルズのラジオドラマでも音楽を手掛けていたバーナード・ハーマン、編集を当時RKOの編集技師だったロバート・ワイズが担当しました。
3)革命的
観客の目や商業的成功を無視し、新たな撮影技術や、映画ならではの表現方法を駆使した革命的作品といえ、特にその撮影は秀逸で、パンフォーカス(ディープフォーカス)を多用した白黒映像の濃淡や逆光など、照明技術での感情表現やロングショットを生かした、ダイナミックな画面構成なども素晴らしいのです。
4)パンフォーカスのシーン
パンフォーカスの素晴らしさの象徴的場面は、ケーンが両親から引き離されることになり、母親が契約書にサインしていると、奥の窓で、無邪気に遊ぶケーンがボケずにはっきり見えます。
母親の脇の銀行家と、やや左奥にいる父親も同じショットの中に映り、全ての状況が把握できるというわけで、通常なら数カットに分ける場面を、ワンカットで処理しているところがやはり画期的なのです。
この手法は、スーザンが自殺未遂をする場面でも生かされています。
5)評価
ジャン=ポール・サルトルは、ニューヨークで見た「『市民ケーン』はわれわれが従うべきお手本ではない」と批判し、「(物語が)一切が終わった地点から遡って見られているため、映画固有の現在形の生が失われてしまっている」と指摘しています。
ジョルジュ・サドゥールは本作を「ハリウッドに一夜降ったドルの大雨で生えてきた巨大なキノコ」と呼び、ここにあるのは「古いテクニックの百科事典」と述べています。
前景と後景を同時に写す撮影法はリュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』で実現済みであり、非現実的なセットはジョルジュ・メリエス、素早いモンタージュや二重露光は20年代の作品、天井が写るのはエリッヒ・フォン・シュトロハイムの『グリード』、ニュース映像の挿入はジガ・ヴェルトフを思わせるものであって、ウェルズはそれらをつぎはぎしたに過ぎないとし、「このお坊ちゃん監督をもう一度小学校に戻して、厳格に教育をやり直させるべきだ」と猛烈に批判しました。
一方、ヌーベルバーグの精神的父親といわれるアンドレ・バザンはサルトルらの主張に反論して作品を絶賛し、これがきっかけで作品も再評価されていきました。
現在では映画史上最大の傑作として高く評価され、映画誌や批評家らによる過去の作品を対象とする映画ランキングでも常に1位または上位にランキングされています。
4.まとめ
当時25歳の若き天才オーソン・ウェルズが製作・監督・脚本・主演を務め、すべてを手に入れた男の孤独な生涯を、革新的な映像技法とストーリー構成で描き出して、映画史に残る傑作として語り継がれる人間ドラマとなりました。