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映画『砂漠の鬼将軍』名将ロンメルの苦悩を描いています!!

この映画『砂漠の鬼将軍(The Desert Fox: The Story of Rommel)』は、1951年のアメリカ合衆国ヘンリー・ハサウェイ監督の戦争映画です。

目次

 

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1.紹介

第二次世界大戦中の北アフリカ戦線において連合軍を苦しめる活躍をし、“砂漠の狐”と異名をとりながらも、ヒトラー暗殺計画に加担したとして悲劇的な最期を遂げたドイツ軍元帥エルヴィン・ロンメルの生涯を、実際に北アフリカ戦線でロンメルと戦い、捕虜となったデズモンド・ヤング准将の手記『砂漠の狐ロンメル』を原作に映画化しました。


2.ストーリー

1)プロローグ

1941年11月、北アフリカリビアで、イギリスのコマンド部隊による、ドイツ・アフリカ軍団総司令官エルヴィン・ロンメル大将(ジェームズ・メイソン)の司令部奇襲作戦が実行されます。

難なく司令部に侵入した部隊は、敵兵を次々と倒すものの、ロンメル暗殺は失敗に終わりました。

イギリス陸軍司令部では、戦果を上げ続けるロンメルの快進撃で、彼を”超人”のように思い込むことを払拭するよう、中東軍司令官クルード・オーキンレック将軍からの指令を各指揮官に徹底させるのでした。

 

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1942年6月、ドイツ軍に捕らえられたイギリス軍の先任将校デスモンド・ヤング中佐は、敵士官から味方の砲撃を止めさせるよう強要されます。

ドイツ側の士官は、ヤング中佐の命をも奪いかねない態度で彼に迫りますが、国際協定に違反する、その強引な方法を見た司令官はそれを制止しました。

その司令官こそ、第一次大戦以後、ドイツ国防軍最高の指揮官と言われた伝説の男、”砂漠の狐”の異名を持つ陸軍元帥”エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル”でした。

ロンメルの戦術、戦法は、敵であるイギリス軍からも賞賛されるほどで、命を助けられたヤング中佐は、元帥に向かい最敬礼をしました。

1944年10月1にロンメルは死亡し、ナチス・ドイツは彼の死を”戦場における名誉の死”と発表しました。その発表を怪しんだヤング中佐は、戦後、ロンメルの死の真相を探る旅に出ます。

ヤング中佐は、ロンメルの家族や軍関係者に会い、そしてイギリスやドイツの公式記録などを調べ上げました。


2)エル・アラメインの敗北

1942年10月23日、エジプト北部エル・アラメインのイギリス軍が、3ヶ月前の第一次会戦に続く第二次攻撃を開始します。この時、ロンメルはアフリカを離れ、持病の”ジフテリア”治療のため本国に戻っていました。

奇襲を受けたドイツ軍は、急遽アフリカに戻ったロンメルの指揮の下、部隊の立て直しを図ります。

しかし、装備や燃料の補給が十分でないことに加えて、敵イギリス軍司令官バーナード・モントゴメリー将軍の巧みな戦術に遭い、ドイツ軍は劣勢となりました。

戦闘開始から10日目、全滅を避けるために撤退を余儀なくされたロンメルは、それを決意します。しかしロンメルは、ベルリンの総統ヒトラーから、最後の一兵まで戦えとの電文を受けます。

電文を破り捨てたロンメルは、ヒトラーの命令を無視して部隊に撤退を命じました。

11月4日、ロンメルは全軍に撤退命令を出し、連戦連勝を誇ったドイツ・アフリカ軍団は初めて敗北を味わうのでした。

 

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3)内外の危機

帰国後、入院していたロンメルは、妻ルーシー(ジェシカ・タンディ)と息子のマンフレート(ウィリアム・レイノルズ)、そしてナチスの監視リストに名を連ねるシュツットガルト市長のカール・シュトローリン博士(セドリック・ハードウィック)の訪問を受けました。

ロンメルは、命の限りを尽くした戦地での任務に対する、ヒトラーの非情な態度を批判し、総統が勝利に否定的だということをシュトローリン博士に伝えます。

博士は、国家の破滅を阻止するには、ヒトラーの退陣が不可欠だということと、英雄ではあるが総統の側近には嫌われているロンメルの身を案じ、警戒するよう忠告しました。

その後、ゲシュタポはシュトローリン博士の尾行を開始します。

1943年11月、連合軍のヨーロッパ侵攻は時間の問題となり、ロンメルは療養後、大西洋防衛線(大西洋の壁)を視察をします。

1ヶ月後、ロンメルは、西方軍総司令官・ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥(レオ・G・キャロル)を訪ね、”大西洋の壁”の甘い防御を指摘したロンメルは、水際で敵を撃滅することの重要性を語ります。

ボヘミア出身の、伍長としての軍歴しかないヒトラーに従わなければならないもどかしさを、ルントシュテットは皮肉を込めてロンメルに伝え、自分達の思うようにはならない現実を語ります。

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さらにルントシュテットは、自分も含めて、ナチスの監視下に置かれていることをロンメルに伝えるのでした。


4)謀議への誘惑

1944年2月、自宅に帰宅していたロンメルを、旧友シュトローリン博士が訪ねます。博士は、軍関係者や各方面の有識者などが、ヒトラーの退陣と、ナチスの恐怖の排除を願っていることをロンメルに伝えました。

ヒトラーに従った報いを受けられると考えるロンメルに対し、シュトローリン博士は、愛国者達が妻子達を含め守ってくれると、本気で信じているのかを問います。

上官に従うのが務めの一軍人に過ぎないことを強調して、自分に政治家の心を動かせるはずの無いことをロンメルは強調するのでした。

シュトローリン博士は、ヒトラーやその側近らを嫌う気持ちがありながら、操り人形に成り下がったロンメルを臆病者呼ばわりします。

声を荒げる博士だったが、ロンメルを根気よく説得し助力を求めます。ヒトラーを、強引に失脚させるしか方法がないのか思い悩むロンメルは、妻ルーシーの励ましを受けて任地に向かいました。


5)敗色濃いドイツ軍

1944年6月6日、連合軍はついにヨーロッパ侵攻を開始し、ノルマンディー上陸作戦が実行されました。

司令部に戻ったロンメルは、侵攻が始まったにも拘らず、カレーが上陸地点だと断言し部隊を配備させるヒトラーから、軍の支配権を手に入れられないことを、司令官のルントシュテットから聞かされます。

そしてロンメルは、意を決してヒトラーを失脚させる計画への賛同をルントシュテットに求めました。しかしながら、ルントシュテットは、革命には年をとり過ぎたと言ってそれを拒むのでした。

 

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ベルリンでは、国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥(ジョン・ホイト)から連絡を受けたルントシュテットは、部隊の指揮は認めずに吉報を出せというカイテルの指示に対し、”講和を結べ、愚か者!”と吐き捨てるように答えるのでした。

そしてルントシュテットは、自分が罷免されるだろうということと、”計画”に対しての幸運を祈り、ロンメルに別れを告げました。

その後、連合軍は内陸に進軍し、ライン川に迫りドイツ軍は敗走を続けました。


6)ヒトラー暗殺

ヒトラー暗殺計画”に参加するカール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル将軍の使者から、準備が整ったことをロンメルは知らされます。

最後の行動に出たロンメルは、面会したヒトラー(ルーサー・アドラー)に、戦況の圧倒的不利を訴えますが、ヒトラーは、革命的新兵器”V2ロケット”でロンドンを攻撃して反撃に出て、戦況を一変させるという狂言的な意見で自信を見せるのでした。

そして、ロンメルは”暗殺計画”の実行を決め、同時に前線の立て直しも図りました。

7月17日、ロンメルは田舎道を移動中、敵機スピットファイアの攻撃を受けて頭部に重傷を負ってしまいます。

7月20日、東プロイセンのラシュテンブルクでは、ヒトラーと参謀は、総統大本営”ヴォルフスシャンツェ”で会議を開きます。

その会議に参加したクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐(エドゥアード・フランツ)は、現れたヒトラーに挨拶して、爆弾を仕掛けた鞄を机の下に設置しました。

会議室の爆破は成功して、数名の人命が奪われますが、ヒトラーは奇跡的に軽傷で済みました。

”暗殺計画”は失敗し、加担した容疑者5000名が処刑され、傷の癒えたロンメルは、世間から無視され孤立してしまいます。


7)反逆罪

1944年10月13日、カイテル元帥からの連絡を受けたロンメルは、翌日、新しい任務に就くためにヴィルヘルム・ブルクドルフ(エヴェレット・スローン)とエルンスト・マイゼル(ドン・デレオ)両将軍の訪問を受けました。

ヒトラーの代理だと伝えたブルクドルフは、ロンメルの輝かしい軍歴と武勲を称え、その後ブルクドルフは、反逆罪に問われたロンメルへの起訴状を渡します。

ロンメルは、その件に関しては法廷で答えることを、ブルクドルフに伝えますが、ブルクドルフは、総統が裁判を望まず、判決は既に決まっていることと、ロンメル自身の名誉と家族も守ることを保障して自決を促しました。

ロンメルは尚も裁判を望みましたが、妻ルーシーとマンフレートの安全を確保するため自決を決意します。

ルーシーにそれを知らせたロンメルは、副官のヘルマン・オドリンガー大尉(リチャード・ブーン)に、武力での抵抗を提案されますが、既に親衛隊が自宅周辺を包囲していました。

ロンメルは、オドリンガーに妻子を託し、マンフレートを抱きしめ、ルーシーに別れを告げるのでした。

死に向かう車中で、ロンメルの脳裏に浮かんだのは何だったのか、遅すぎた行動への悔恨、または、めざましい戦果を上げた北アフリカの戦場だったのでしょうか。

 

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8)エピローグ

ロンメルの最強の敵ウィンストン・チャーチルは語っています。

”自分達を苦しめはしたが、彼は賞賛に値する”(1942年の下院)
”また、尊敬するのは、国家への忠誠心を貫く軍人でありながらヒトラーを憎み、その暴虐を阻止し、祖国ドイツを救うための計画に加担し、命を捨てたことだ。