凸凹玉手箱

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映画『動乱』絶頂期の高倉健と吉永小百合の初共演です!!

 

この映画『動乱』は、1980年1月15日に公開された日本映画で、高倉健吉永小百合の初共演が注目を集めました。

脚本を『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』の山田信夫、監督は『聖職の碑』の森谷司郎、撮影は『天使の欲望』の仲沢半次郎がそれぞれ担当しました。

目次

 


1.紹介

昭和史の起点となった五・一五事件から二・二六事件までの風雲急を告げる時が背景で、寡黙な青年将校とその妻の生きざまと愛を描いています。第1部「海峡を渡る愛」、第2部「雪降り止まず」の2部構成となっています。

 

2.ストーリー

1)プロローグ

昭和7年。宮城啓介大尉(高倉健)の部隊から、新兵の溝口英雄(永島敏行)が脱走します。姉の薫(吉永小百合)が、貧しさから売られるとの連絡を受けたためでした。溝口は銃殺され、宮城は薫が売られないよう、香典として千円渡しました。

 

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2)朝鮮の地で

当時の日本は貧しく、一部の金持ちが贅沢な暮らしをしていました。これに憤った一部の将校や士官候補生達がクーデター「五・五一事件」を起こして失敗、陸軍内の対立が深まりました。

宮城は脱走者を出した為、当時日本の領土だった朝鮮国境へ左遷され、そこで偶然芸者となっていた薫と再会します。


3)気運の高揚

宮城の赴任先では軍事物資が横流しされ、一部の将校が私腹を肥やしていました。その事を知った宮城はそれを盾に、自殺未遂を起こした薫を引き取ります。

 

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昭和10年。宮城は東京に呼び戻され、連れて帰った薫と夫婦関係を持たないまま同居します。宮城の元には多くの青年将校が集まり、国家の改革について「時来たる」「時期尚早」などと、熱く語り合っていました。

憲兵隊の島憲兵曹長米倉斉加年)は向いの家から宮城を見張っていましたが、宮城に共感していました。


4)決起の前に

宮城は薫を伴い、恩師の神崎中佐(田村高廣)を訪ねます。神崎は、国軍を腐敗させた統制派の事務局長、水沼鉄太郎少将(天津敏)は自分が切るので、宮城は青年将校をまとめてくれ、と言います。

 

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そして神崎は事務局長を暗殺。宮城はこの暗殺に関わったとして、呼び出され憲兵に毒を盛られ昏睡状態となりますが、薫や、薫が助けを求めた島の尽力もあり、宮城は回復します。暗殺事件を受け、青年将校達の機運が高まります。昭和維新決行が決まり、宮城は初めて薫と一夜を共にします。

 

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5)動乱の結末

昭和11年2月26日早朝。決起した約1500人の青年将校達は陸相官邸、蔵相、内大臣私邸、首相官邸などを襲撃しますが、軍の上層部は宮城らの思いを隠蔽し、反乱軍として処理しようとして失敗します。

宮城に自決を強要しますが、宮城は「裁判ですべてを克明に知ってもらうまで自決はしない。」と拒否。軍法会議が行われますが、審議は非公開、上告は許されない暗黒裁判でした。


6)エピローグ

そして宮城以下15人は反乱罪で死刑の判決が下ります。薫が面会に来ますが、正式な妻で無いため面会出来ませんでした。

 

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後日、宮城の父の立ち合いのもとに正式に籍を入れ最後の面会を果たすことができました。

7月12日、宮城の銃殺刑が執行されました。

 

3.四方山話

1)撮影

撮影は1979年2月から断続的に10月までの約8ヵ月で、主たる撮影は6月中に終わり、同じ高倉健が主演する松竹・山田洋次監督『遙かなる山の呼び声』が北海道で、1979年6月初旬にクランクインしました。以降、秋、冬とあり、夏と秋に少し撮影が重なる時期がありました。

両作とも、四季を通じての撮影で、季節の変化をきっちり捉えて、撮影期間をたっぷり取り、製作費も充分に継ぎ込んでいました。

吉永小百合も一年かけて映画を撮るのは初体験で、四季を追うため、何度か休みがあり、気持ちを引っ張っていくのが難しかったと述べています。

二・二六事件を扱うため、冗談を言いながらワイワイガヤガヤ作っていく性質の映画ではなく、高倉も撮影は相当しんどかったと話しています。森谷監督も並行して『漂流』(1981年)の準備を行っていました。


2)キャスティング

高倉健

高倉健は当時、出演オファーが殺到する状況でしたが、ちょうど男と女の話にグンとウエイトがかかっているものをやってみたい、と思っていたこともあり、吉永小百合との初共演ということもあって本作の出演を決めました。

高倉のギャラは日本映画では当時最高額といわれた2500万円。8ヵ月に及ぶ長期間の撮影ということもあり高額になりました。とかくゼニカネにシビアといわれ、契約交渉のたびに揉めていた高倉の長年のギャラ闘争が実った形となりました。

高倉健は、自分の映画やCMの出演料が高額であることにこだわり、CM1本で1億円と伝えられたこともありました。

東映退社後にフリーになったころ、特に固執しました。それには理由があって「俳優という職業を社会的に認めてもらいたいから」といっています。

映画界に入ったころ「恥ずかしい仕事だと思っていた」と言い、「世の中で、まともな仕事と判断されるためには、それなりの報酬を得ているということが大事だと思っていた。だからこだわったね」と言っています。

俳優の地位向上のため、出演依頼に首を縦に振らなかったこともあったそうです。「妥協したら、後輩たちのためにもよくないから」と、映画界全体を見つめていました。


吉永小百合

吉永小百合は脚本を読み、以前からやりたかったイメージの役、と出演オファーを受けました。吉永は東映初出演で、東映撮影所はヤクザ映画イメージが強くてコワそう、とビビっていましたが、スタッフともすっかり溶け合い、以降、東映付きました。

吉永のギャラは50日間の撮影にも関わらず、600万円で、吉永は自分の気に入った役柄以外はお断りと表明していたため、人気のわりにギャラは安かったそうです。

また当時の映画会社には「主役が女優では客が来ない」という考えがあって、男性俳優に比べて女性俳優は全体的にギャラは安かったそうです。しかし女性俳優は男性俳優よりテレビドラマやCMが多かったため、人気女性俳優になれば、収入はあまり男性俳優と変わらなかったみたいです。

吉永は本作で映画は約90本を重ね、継続して人気を保ってきましたが、自分では「22歳から35歳くらいまでは何をやってもダメで、ずっとしんどかった」と話しています。

本作の森谷監督と高倉が24時間映画の話しかしない事にビックリし、「こういう人たちがまだ映画界に残ってたのか」と二人の映画に賭ける情熱と、カメラの前以外でも主役である軍人らしくする高倉健の演技姿勢に感銘を受け、「もう一度、心を込めて一つずつ、映画をきちっとやってみようという気になった」と話しています。

撮影中のある昼休み、キャストやスタッフはロケバスに駆け込んで昼食をとっている中、厳しい寒さの原野に立ったまま食事をする高倉を吉永は最初理解できず心配しましたが、同じ日の夜、昼と違って高倉がスタッフと話しているのを見て、彼は陸軍将校になりきるために外でぽつんと立っていたのだと気付き、役者としての強い姿勢に圧倒されたと語っています。


3)エピソード

高倉健吉永小百合、森谷監督は本作の後、しばらくして一緒に東宝の『海峡』の撮影に入りました。『海峡』の撮影が本作同様1年近くあり、合計2年間一緒にいたわけです。

高倉は監督とは食事をしない主義で、スタッフ全員で食事することもなく、吉永は高倉と二年の間、食事を共にしましたが、何故一緒に食事をしないのか、高倉に質問もしがたい感じで聞くことは出来なかったと吉永は話しています。

高倉はワインをグラス一杯だけは飲むが、それ以上は飲まないため、お酒が大好きな吉永は、自分だけ飲むわけにいかず、「健さんとの食事は非常に辛かった」と述べています。

高倉の出演作の助監督を本作も含め、何10本も務めた澤井信一郎は「健さんはまったく酒を飲まない」と話しており、「高倉健は一滴の酒も飲めない」と書かれている文献もあって、それでも吉永に気を使ってワイン1杯を飲んだのかもしれませんね。


4.まとめ

本作について、二・二六事件のドキュメントをリアルに描くのか、その中で運命に翻弄される男女のメロドラマなのか、などでどっちかずとの批判もあります。

ちょっとスケールは違いますが、『風と共に去りぬ』『ドクトル・ジバゴ』も戦争の中での男と女を丁寧に描くと大作になってしまうのかも知れません。

とにかく、超かっこいい男の高倉健と、何処からどう見ても美しい吉永小百合の映画であるのに間違いはありませんでした。