凸凹玉手箱

A Post-Baiby Boomer

映画『ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男』伝説の名勝負をみごとに再現しています!!

 

この映画『ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男(原題:Borg vs McEnroe または Borg McEnroe、スウェーデン語: Borg、フィンランド語: Borg/McEnroe)』は、2017年のスウェーデンデンマークフィンランド合作の伝記・スポーツ・ドラマ映画です。
有名なライバル関係であった実在のテニスプレイヤーのビヨン・ボルグとジョン・マッケンローが対戦した1980年ウィンブルドン選手権の男子シングルス決勝戦を描いています。

監督はヤヌス・メッツ、脚本はロニー・サンダール、主演はスヴェリル・グドナソン、共演がシャイア・ラブーフステラン・スカルスガルドです。第42回トロント国際映画祭のオープニング作品となりました。

目次

 

 

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1.紹介

この作品の成功は、ボルグ役のスベリル・グドナソンとマッケンロー役のシャイア・ラブーフが行った、徹底した役作りにあります。
さらに、ヤヌス・メッツ監督は、2人を別々にトレーニングさせて顔を合わせないようにし、実際のボルグとマッケンローの距離感を表現しており、この2人の距離感が、作品に緊迫感を与える事に成功しています。


1)ボルグ役

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スベリル・グドナソンは当初、ボルグを演じる自信がありませんでしたが、ボルグの内面を徹底的にリサーチし「有名である事に上手く対処できない」という共通点を見つけ、「運が味方すれば上手くいく」と考えました。
また、これまでテニスをやった事が無かったスベリルは、食事制限と毎日2時間のテニス特訓を行い、半年間かけて肉体改造を行いました。
結果的には、見た目もボルグに似せる事を成功させ、高い評価を受けています。

なお、彼の9歳から13歳の時代は、ビヨン・ボルグの実の息子レオ・ボルグが演じています。


2)マッケンロー役

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マッケンロー役のシャイア・ラブーフは、海兵隊役を演じた後で、体がガッチリしていた為、野菜食を中心にした減量を行いながら、テニスの猛特訓を受けました。

シャイア・ラブーフは、問題発言や奇怪な行動が多く、お騒がせ報道でマスコミに注目される辺りが、マッケンローとの共通点を感じます。
マッケンローをシャイアは、故意的に暴言を吐いたり暴れたりする事で、場に緊張感を与えていた「戦略家」と考えており、「ずっと誤解されていた」と信じていました。

シャイアは、この作品の脚本を読んで「僕の中にあることを表現してくれる映画」と感じました。


3)撮影

撮影は2016年8月に開始し、ヨーテボリプラハ、ロンドン、モナコで行われました。ボルグが子供時代を過ごし、テニスを始めた場所でもあるセーデルテリエでも撮影が行われています。 また、ヨーテボリのスタジオでブロードウェイ・シアターのStudio 54が再現されました。
プラハのシュトヴァニツェのテニス競技場は、ウィンブルドンセンターコートに見立てられ、1980年ウィンブルドン選手権の決勝戦のシーンが撮影されました。
グドナソンは「更衣室からセンターコートと見紛う場所へと、何百人ものエキストラの前を私とシャイアが歩いたとき、巨大な真実味を感じた」と語っています。


2.ストーリー

1)プロローグ

1980年、テニス世界ランキング1位のビヨン・ボルグ(スヴェリル・グドナソン)は、24歳にしてテニスの聖地ウィンブルドンで4連覇を果たし、その端正なルックスから、常にファンやマスコミに追いかけられる、落ち着かない毎日を送っていました。

ウィンブルドン5連覇という、歴史的な快挙を前にしてプレッシャーを感じ、精神的な疲労からスランプに陥っていました。

一方、ボルグのライバルとして注目されている世界ランク2位のジョン・マッケンローシャイア・ラブーフ)は、審判や観客に暴言を吐く事から「アル・カポネ以来の、最悪のアメリカの顔」と呼ばれ、激しいバッシングを受けていました。

マッケンローは、テレビに出演しても、テニスではなくボルグの事ばかりを質問され、うんざりした様子を見せます。


2)ボルグ

ウィンブルドンに到着したボルグは、乗り込む車や宿泊するホテル、タオルの枚数に至るまで、全て同じ事にこだわり、就寝前に、ガットを張り直したラケット50本を、全てチェックする事をルーティーンとしている「精密機械」「氷の男」と呼ばれていました。

ボルグの全てを把握しているのはコーチのレナート・ベルゲリン(ステラン・スカルスガルド)だけで、ボルグは「皆が僕の負ける姿を期待している」と悲観的になっていました。

ボルグは少年時代、気性の荒い性格をしていて「紳士のスポーツ」と呼ばれている、テニスには不向きと判断され、いくつものテニススクールを退会させられていました。

しかしながら、ボルグの才能に目を付けたスウェーデン代表の監督レナートは、気性の荒いボルグを辛抱強く指導し、今もボルグと共に歩んでいます。

 

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3)マッケンロー

ウィンブルドン男子シングルス1回戦で、調子が上がらないボルグは、ノーシードの選手に苦戦を強いられます。

ボルグの試合をホテルで見ていたマッケンローは、テニス選手で友人のピーター・フレミング(スコット・アーサー)に誘われ食事に行きます。

レストランでは、苦戦しながらも1回戦を突破したボルグのインタビューがテレビで流れていて、マッケンローは「何度も彼のようになろうとした」と呟きます。

その直後、マッケンローは友人に誘われてピーターを置いてクラブに行き、ボルグが「精密機械」と呼ばれる理由を聞かされます。


4)ボルグの苦悩

次の日の2回戦、マッケンローの試合をボルグはホテルのテレビで見ていました。

試合環境や審判、観客全てに暴言を吐くマッケンローに「彼は、ああやって精神を安定させている」と分析、ボルグにとってマッケンローは、かつての自分を見ているようでした。

2回戦の試合に挑もうと控室で準備をしているボルグの前に、試合を終えたマッケンローが暴言を吐きながら入って来ます。

マッケンローは、そのボルグに気づきますが、お互い無言で視線を合わせるだけでした。

ボルグは2回戦を勝ち抜いて、3回戦に挑みますが、試合途中で雨が降り試合が中断します。

自身のテンポを狂わされたボルグは苛立って、試合を中止するように求めます。

ですが、雨が止んだ為、試合の続行が決まって、ボルグは苛立ちを抱えたまま試合に挑みます。

3回戦を勝利し、ホテルに戻る車中でボルグのストレスは爆発し、その場でレナートにクビを宣告、ホテルに戻った後も婚約者のマリアナ・シミオネスク(ツヴァ・ノヴォトニー)と口論になり、マリアナが出て行き1人になった部屋で、ボルグは塞ぎ込みます。

ボルグの少年時代、気性の荒いボルグにレナートは、アドバイスをしました。
「その怒りを1打1打に込めろ」

レナートとの約束を守り、1打1打に思いを込め、コートや私生活では常に冷静になったボルグは、1974年の全英オープンでの優勝を皮切りに、1976年のウィンブルドンでの、史上最年少の優勝など輝かしい実績を築き、端正なルックスから大スターとなったのでした。

しかしながら、ボルグは「負ければ全てを失う」という恐怖を、常に感じるようになります。

 

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5)マッケンローの悩み

ホテルに戻ったマッケンローは、父からの手紙を受け取りました。

「準決勝は観に行く」と書かれていた手紙を見て、マッケンローは自身の過去を思い出します。

弁護士の父親を持って、厳格な家庭で育ったマッケンローは、常に両親の顔色を伺う、神経質な子供でした。

両親にテニスで認められた事に、それがマッケンローにとっての財産だったのです。


6)迫る対決

そして迎えた準決勝で、マッケンローは勝利しますが、試合中に審判や観客に暴言を吐きまくった事を問題にされ、マスコミから攻撃を受けます。

マッケンローは、マスコミに「試合には全てを出し尽くす、それがお前達には分からない」と吐き捨てるのでした。

また、同じく準決勝を勝ち抜いたボルグですが、ストレスが限界に達して、控室で動けなくなります。

レナートがそのボルグに手を差し伸べました。

 

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7)決勝戦

対峙したボルグとマッケンローは、一進一退の攻防を繰り広げて、タイブレークも挟む接戦を展開します。

「まるで殴り合い」と評された試合内容で、審判の誤審も目立ちますが、マッケンローは一言も文句を言わず試合に集中し、ボルグもマッケンローの想いに応える事で、ストレスから解放されテニスを楽しむようになります。

そして訪れた試合終了の時、勝者はボルグとなって歴史的な快挙の5連覇を達成します。

また、紳士的な態度で最後まで試合に挑んだマッケンローにも、観客は惜しみのない拍手を送りました。

 

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8)エピローグ

次の日、モナコへ戻る為に空港を訪れたボルグはマッケンローと再会し、マッケンローは「次は勝つ」と宣言して、お互いにハグを交わし別れます。

まさに正反対の人間と思われた2人の間に、友情が芽生えた瞬間でした。


3.四方山話

1)テニス史上最高の名勝負

ボルグとマッケンローは、テニス史における最高のライバル関係として必ず名前が登場する2人で、対戦成績は正に頂上決戦というに相応しく7勝7敗という全くの五分でした。

しかも14回の対戦のうち13回が準決勝以上であり、残る1回もトップ選手のみが出場するマスターズのRRであるから実質全試合が頂点付近の対決であったといえるのです。

対戦時期はマッケンローが10代の頃からボルグの引退まで、お互いのキャリアで重なりのある時期全てに及んでいるのですが、年数にしてみるとわずか3年に過ぎないのは驚きの事実で、意外にも非常に短期間のライバル決戦であったのでした。
ちなみに、コナーズvsマッケンローの場合は実に14年にも及んでいます。

しかし3年で14回の対戦というのは非常に多く、例えば、ボルグvsコナーズは全23回の対戦がありますが、マッケンローが登場する5年も前から行われているのでした。


2)勝敗分析

コート別に勝敗の傾向を見てみると、まずハードコートではマッケンローが3勝1敗とリードしています。両者のコート別成績を見れば自然な結果といえるのですが、初対戦で、まだ10代のマッケンローが勝利しているのは意外かもしれません。

一方カーペットでは5勝3敗とボルグがリードしています。両者得意のコートなので対戦も多く、特に1980年と81年マスターズは3セットマッチとはいえ、いずれもフルセットで、手に汗握る熱戦となっています。

グラスコートでは、お互い譲らず1勝1敗となっていて、どちらもウィンブルドン決勝で、恐らく多くのファンにとって両者の対戦といえばこの2試合になるのではないでしょうか。

残念ながらクレーでの対戦はありませんでした。スタイル的には断然ボルグ有利と思われるコートですが、マッケンローもコナーズやレンドルを相手に健闘を見せることもしばしばだったので、もし試合が行われていたとしたら面白い展開になったのかもしれません。

グランドスラムではわずか4回しか対戦していません。わずか3年という期間限定だったし、両者とも全豪には出なかったので仕方ありません。しかしウィンブルドンとUSオープンで行われた対戦はいずれも決勝であり、どれもが名勝負でした。
特に1980年のウィンブルドン決勝はいまだに語り草となっているテニス史上最高の試合の一つですが、ただ、グランドスラムでボルグが勝利したのはこの試合のみでした。グランドスラムでの対戦成績はマッケンローの3勝1敗となっています。


3)ランキング推移

既に1977年、まだマッケンローがデビューしたての頃に、ボルグはランキング1位を経験しています。ただ、その時はわずか1週でコナーズに取り返されています。実質ボルグがトップに君臨するのはもっと後になります。

1979年にコナーズとボルグは激しいランキング争いを繰り広げ、遂に7月に、ボルグは長期政権を手に入れることに成功しました。この1979年7月からがボルグ時代ということになってきます。

このボルグ時代の突入と同時にボルグはマッケンローをリードし始めます。両者の対戦はそれまで交互に勝ち負けを繰り返していましたが、この時から1981年1月までボルグが実に5勝1敗という成績を収めています。

キャリアを通じてほぼ互角の勝負を見せた両者ですが、力関係に傾きがあった時期も存在したという点は見逃せません。ただ、まだキャリアの浅い頃から、既にトップランカーであったボルグと対等に渡り合ってみせた若きマッケンローのパフォーマンスも賞賛に値することは事実でしょう。

その後、1981年に入ってから2人の力関係は逆転します。最後の3戦はいずれもマッケンローの勝利であり、同時にテニス界はマッケンローの時代へと移り変わっていきました。


4)プレーの傾向

史上最高のストローカーと史上最高のネットプレイヤー、その両者の対戦なので当然ストロークvsボレーという図式になりました。

ボルグの技巧的なパスが針の穴を通すようにマッケンローの横を抜けていき、マッケンローの飛びつきざまのボレーがボルグのコートに吸い込まれるように落ちる。そういった興奮冷めやらぬ画が容易に思い浮かびます。

ただ、決して両者はそうした画一的なスタイルだけで試合を披露したわけではありませんでした。

例えば後年のボルグは、特に1981年ウィンブルドンの試合を見返してみると、立て続けにネットダッシュを試みているのがわかります。意表をついているわけではなく、プレーの形として取り入れているのは確実でした。80年代には、芝生ではネットプレーが優勢であるという考えが支配的になりますが、それを暗示するかのようなプレーであったといえるでしょう。

またマッケンローがストローク戦で打ち合ってエースを取るシーンもみられ、ネットに出てもよさそうなタイミングなのにも関わらず、敢えて強引に打ち合ったりするのはマッケンローによくある癖でしたが、それでも尚ポイントを取ってしまうのがこの人の凄いところです。

両者が歴史上類を見ないほどにファンを興奮させたのは、ただトップ同士、ただ対照的なスタイルというだけでなく、プレーの幅とその質の高さで観るものを魅了したからです。

 

 

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4.まとめ

対照的な2人と思われたボルグとマッケンローですが、少年時代のボルグは感情的で、逆に少年時代のマッケンローは神経質、ただ、ボルグは機械的なルーティーンで「氷の男」を作り上げ、マッケンローは暴言を吐く事で精神を安定させる「悪童」となりました。

「試合に負けると全てを失う」という恐怖を抱きつつ、テニスに「氷の男」と「悪童」として試合に挑み続けた2人は、対照的どころか、同じ種類の人間であった事が分かります。

突出した人間のみの、常人では理解できない「孤独」に苦しみ続けた2人は、激しい決勝戦を通して分かり合い、実際にその後は親友になっています。