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映画『海峡』時代の大事業と明媚な風景と名優の映像が観れます?!

この映画『海峡』は、1982年10月16日公開の映画で、『日本沈没』、『八甲田山』、『動乱』の森谷司郎監督が東宝創立50周年記念作品として、高倉健吉永小百合森繁久彌、などの豪華キャストで制作されました。

青函連絡船洞爺丸事故(1954年)から約30年にわたり青函トンネルの工事(1961年~1988年)に執念を燃やす国鉄技師らの物語を描いた映画です。

目次

 

 

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1.トンネル概要

かつて青森駅函館駅を結ぶ鉄道連絡船として、日本国有鉄道国鉄)により青函航路(青函連絡船)が運航されていました。しかし、1950年代には、朝鮮戦争によるものと見られる浮流機雷がしばしば津軽海峡流入、また1954年(昭和29年)9月26日、台風接近下において誤った気象判断によって出航し、暴風雨の中、函館港外で遭難した洞爺丸他4隻の事故(洞爺丸事故)など、航路の安全が脅かされる事態が相次いで発生しました。

これらを受けて、太平洋戦争前からあった本州と北海道をトンネルで結ぶ構想が一気に具体化し、船舶輸送の代替手段として長期間の工期と巨額の工費を費やして建設されることとなりました。

このトンネルは、津軽海峡の海底下約100mの地中を穿って設けられたトンネルで、全長53.85 kmは交通機関用のトンネルとしては日本一および東洋一となっています。全長は約53.9kmであることからゾーン539の愛称がありました。

交通機関用トンネルとしては世界2位の長さであり、海底トンネルおよび狭軌のトンネルとしては世界一の長さと深さを持つ交通機関用トンネルです。海底部の総距離では英仏海峡トンネルが世界一の長さを持っています。
1988年3月13日に開通してから2016年6月1日にスイスのゴッタルドベーストンネルが開通するまでは、世界一の長さを持つ交通機関用トンネルでもありました。

 

トンネルは在来工法(一部TBM工法・新オーストリアトンネル工法)により建設され、トンネル本体の建設費は計画段階で5,384億円でしたが、実際には7,455億円を要しています。取り付け線を含めた海峡線としての建設費は計画段階で6,890億円、実際には9,000億円に上りました。なお、全工程においての殉職者は34名、竜飛崎に殉職者の碑が建っています。


    海底部標準断面図

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①本坑 ②作業坑 ③先進導坑 ④連絡誘導路

 


2.あらすじ

昭和二十九年、青函トンネル技術調査団の阿久津剛(高倉健)が調査を開始した直後、青函連絡船「洞爺丸」が転覆し、大量の遭難者を出しました。海岸に漂着した遭難者の中から息も絶え絶えの成瀬仙太を救い出しました。

ある時、阿久津は冬の竜飛岬で牧村多恵(吉永小百合)という女を救いました。彼女は福井の旅館で、不注意から出火を招き十一人の泊り客を死なせた暗い過去があったのです。
阿久津に救われ、飲み屋の女将おれん(伊佐山ひろ子)に預けられた夜、おれんの出産に立ち会った多恵は一人の生命を誕生させたことによって生きる勇気を取り戻しました。その赤ん坊は、阿久津によって峡子と名付けられました。

青函トンネルは技術的に可能」と中央に答申した32年から、阿久津は明石海峡調査の辞令が下り津軽海峡に心を残しながらも、故郷の岡山に戻りました。その間に、阿久津は佳代子(大谷直子)をめとり、修をもうけました。

昭和三十九年、日本鉄建公団が発足し、青函トンネル工事に本腰が入り、阿久津は再び青森に向います。所長、浜口圭介以下、25名のトンネル男が函館に集結しました。
阿久津はまず人集めに取りかかり、トンネル掘りのベテラン、岸田源助(森繁久彌)を口説きました。関門、深坂など、いくつもの難工事を手がけた源助が参加すれば、彼を慕うトンネル男たちが追いて来てきます。「もう年だよ」といいながらも、源助は申し出を受けました。

 

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41年から調査斜坑掘削が開始され、公団第一期生の募集に成長した成瀬仙太(三浦友和)が応募してきました。仙太は、母の腕に抱かれ洞爺丸から浜に打ち上げられ、その時、両親を失っていました。仙太は津軽の海を掘ることで、両親の弔いをしたかったのかも知れません。

 

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竜飛に、源肋、阿久津、仙太の三代の男が集まり、彼らを、おれん、多恵、峡子が見まもりました。阿久津の妻、佳代子は烈風の吹く竜飛に住むことを諦め、岡山で修を育てました。工事は困難を極め、数年が過ぎて、阿久津は年をとり、修は大学生になっていました。そして、阿久津がトンネルと戦っている間に、故郷の岡山で父の才次(笠智衆)が死にました。トンネルに大出水が出た日、源助が死にました。しかし、阿久津の決断から先進導坑が救われ、本州から北海道へ、風の吹き抜ける日が目前に迫っていました。

 

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3.みどころ

健さん出ずっぱり、姿の見えないシーンはありません。森繁久彌、当時69歳痛々しく見えなくもないですが、ここぞという時の迫力やしんみりと語るところはさすがです。なによりトンネル掘りの歌「流浪の民」がいい。笠智衆、当時78歳、歯のないそのままの姿が微笑ましくも痛々しい。吉永小百合、当時37歳、日本映画界の珠玉、どこから見ても綺麗なのです。

トンネル湧水のシーンは実際にこのようなものかと思わせる迫力があり、木村大作の撮る津軽海峡、竜飛岬は芸術的に美しいものでした。

 

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4.まとめ

 映画のラストで、トンネル貫通のセレモニーに湧くシーンがありましたが、実際の先進導坑貫通はこの映画公開の翌年1983年、本坑全貫通は1985年でした。

つっこみどころ満載の映画ですが、映画は楽しく観るもので、吉永小百合の御影を拝顔するだけで満足してしまいました。