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映画『硫黄島からの手紙』と『父親たちの星条旗』とは?!

 

この2本の映画は太平洋戦争における「硫黄島の戦い」を日本とアメリカそれぞれの側から描いたものです。全く同じ事象を立場を変えて語ったものではなく、それぞれの国でもっとも印象的な日本陸軍の栗林中将、アメリ海兵隊星条旗に纏わる物語となっています。

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クリント・イーストウッド監督の戦争映画の2部作で、どちらから観ても片方だけ観ても成り立ちますが、やはり両方観たほうが戦争の違った一面を描いているので興趣も深まります。

 

目次

 

 

1.硫黄島とは

硫黄島(いおうとう)は、小笠原諸島の南端近くに位置した、東西8 km、南北4 kmの島です。面積は21km2程度、最高点は島の南部にある標高169mの摺鉢山で、土壌は火山灰のため保水性はなく、よって、飲料水等は塩辛い井戸水か雨水に頼るしかありませんでした。戦前は硫黄の採掘やサトウキビ栽培などを営む住民が約1,000人居住していたそうです。

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島名は、島の至るところで見られる硫黄に由来していて、硫黄島の呼称は、第二次世界大戦以前は島民と主に大日本帝国陸軍の間では「いおうとう」、大日本帝国海軍の一部の間と明治時代作成の海図では「いおうじま」としていました。

各報道機関でも同島を「いおうじま」と報道したことにより、2007年(平成19年)までは「いおうじま」と呼ばれることが多かったのですが、硫黄島の呼称を「いおうとう」に統一するようにという要望は、旧島民およびその子孫などの間から古くからあり、この要望に応え、2007年(平成19年)3月に小笠原村議会では、第1回議会定例会の最終日に、同島の呼称を「いおうとう」に統一する「硫黄島の呼称に関する決議案」を提出し採択され、小笠原村は地名の修正を国土地理院へ要望しました。

 

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これにより、国土地理院では、平成19年(2007年)9月発行の地形図から、ついで海上保安庁の発行する海図でも「いおうとう」が正式な表記となっています。

現在は、海上自衛隊管理の硫黄島航空基地が設置され、島内全域がその基地の敷地とされています。このため原則として基地に勤務する自衛隊員以外は島に立ち入ることが禁止され、島を住所や居留地として生活する者はいません。しかしながら、戦没者の慰霊祭が現地で開催される際等には、旧島民や遺族、それに戦没者の遺族等の上陸が許可されています。

島内には無数の不発弾が残っているとされ、この回収も困難な状況で、不発弾爆発の危険性等から、自衛隊員でも立ち入りが禁じられている地域も存在します。


2.硫黄島の戦い

硫黄島の戦い(Battle of Iwo Jima)は、太平洋戦争末期(1945年2月19日~1945年3月26日)に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いであり、アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦(Operation Detachment)といいました。

 

1)日本軍

1941年12月の太平洋戦争開戦時、海軍根拠地隊約1,200名、陸軍兵力3,700ないし3,800名を父島に配備し、硫黄島をこの部隊の管轄下に置いていました。開戦後、南方方面(東南アジア)と日本本土とを結ぶ航空経路の中継地点として硫黄島の重要性が認識され、海軍が摺鉢山の北東約2kmの位置に千鳥飛行場を建設し、航空兵力1,500名および航空機20機を配備していました。

 

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1944年2月、アメリカ軍によりマーシャル諸島を占領され、トラック島が大規模空襲を受け、多数の艦艇や航空機を含む日本海軍の兵力が粉砕されました。日本の大本営カロリン諸島からマリアナ諸島小笠原諸島を結ぶ線を絶対国防圏として死守することを決定し、防衛線の守備兵力として小畑英良陸軍中将の指揮する第31軍が編成され、配下の小笠原地区集団司令官には、栗林忠道陸軍中将が任命され就任しました。硫黄島には3月から4月に増援部隊が到着し、総兵力は5,000名以上に達しました。

アメリカ軍の潜水艦と航空機による断続的な攻撃によって多くの輸送船が沈められましたが、1945年2月まで兵力の増強は続いき、最終的に、小笠原兵団長・栗林中将は小笠原方面陸海軍最高指揮官として陸海軍計兵力21,000名を統一した指揮下に置くことになりまし。しかしながら、硫黄島総兵力の半数に達する程の海軍部隊については海軍の抵抗により完全なる隷下とすることができず、また最高指揮官である市丸海軍少将以下兵に至るまで陸上戦闘能力は陸軍部隊には及ばない寄せ集めでありながら、水際防御・飛行場確保・地上陣地構築に固執するなど大きな問題もありました。

 

2)アメリカ軍

アメリカ統合参謀本部は、日本軍の早期警報システムを破壊し、日本軍の迎撃航空機の基地の撃滅する。つまり、硫黄島を避けることによる爆撃機の航法上のロスの解消し、被弾による損傷、故障、燃料不足によりマリアナまで帰着できない爆撃機の中間着陸場の確保と、爆撃機を護衛する戦闘機の基地の確保、などを目的として、硫黄島の占領を決定しました。

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フィリピンにおけるレイテ島の戦いが終わりに近づくと、沖縄侵攻までの2か月間に行う作戦計画として硫黄島攻略が決定され、一連の進攻作戦は「デタッチメント作戦」と命名されました。

1945年2月16日(日本時間)、アメリカ軍硫黄島派遣軍は硫黄島近海に集結し攻撃を開始し、19日、午前6時40分に艦砲射撃が始まり、8時5分にB-29爆撃機120機、その他B-24や海兵隊所属機を含む艦載機による重爆撃に交代(効果は上がらなかったと報告されています)、8時25分から9時まで再度艦砲射撃が続き、9時、第4、第5海兵師団の第1波が上陸を開始しました。

夕方までに海兵隊30,000名が上陸して海岸堡を築き、ごく少数ではありましたが、突進して西海岸に到達する将兵も現れました。海兵隊はそれまでの島嶼作戦で日本軍の常道だった夜襲と万歳突撃を待ち構えましたが、日本兵は来ず、日本軍が実施したのは少人数による手榴弾を使った襲撃(挺進攻撃)と夜間砲撃という、初戦においても、これまでと違った戦法に遭遇しました。

 

3)終結

いったん戦闘が始まると、日本軍には小規模な航空攻撃を除いて、増援や救援の具体的な計画・能力は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となりました。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受け、太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、フィリピンの戦い (1944-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦の太平洋戦線屈指の最激戦地の一つとして知られています。

  

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上陸から約1か月後の3月17日、日本軍硫黄島守備隊の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は同島をほぼ制圧し、3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表します。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結しました。

 

3.映画『硫黄島からの手紙

1)概要

硫黄島からの手紙』(いおうじまからのてがみ、Letters from Iwo Jima)は、2006年のアメリカ合衆国の戦争映画で、『父親たちの星条旗』(Flags of Our Fathers)に続いた、第二次世界大戦における硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」の日本側視点の作品となっています。

 

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劇中の栗林忠道陸軍大将の手紙は、彼の手紙を後にまとめた『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(栗林忠道・著 吉田津由子・編)に基づいていて、監督やスタッフは『父親たちの星条旗』と同じくクリント・イーストウッドらがそのまま手掛けています。

どちらかというと、人の死によって泣かされる映画ではありません。日本軍がとった作戦や戦闘の経過、日本兵たちの様々な思い、手紙を通じて知りえた事実を冷静に受け止め、追悼の念を込めた映画と言えるでしょう。

アメリカ人が硫黄島での戦闘を日本人の視点で描いたこと以外に、現代的な視点を取り入れた人間本来の姿をリアルに表現していたことに驚かされます。

2)ストーリー

2006年、東京都小笠原諸島硫黄島。戦跡の調査隊が、地中から、61年前、この島で戦った男たちが、家族に宛てて書き残した数百通もの手紙を発見しました。届くことのなかったこれらの手紙に、彼らは何を託したのでしょうか。

太平洋戦争の戦況が悪化しつつある1944年6月、小笠原方面最高指揮官・栗林忠道陸軍中将(渡辺謙)が硫黄島に降り立ちました。本土防衛の最後の砦とも言うべき硫黄島の命運が栗林率いる帝国陸軍小笠原兵団に託されたわけです。

着任早々に、従来一般的であった水際防衛作戦を否定し、内地持久戦による徹底抗戦に変更、また部下に対する理不尽な体罰を戒めた栗林に兵士たちは驚きの目を向けました。今までのどの司令官とも違う男との出会いは、硫黄島での日々に絶望を感じていた応召兵・西郷陸軍一等兵二宮和也)に、新たな希望の光を抱かせるのでした。

 

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栗林が水際防衛や飛行場確保に固執する海軍軍人らの反対や突き上げを抑える中で、硫黄の臭気が立ち込める灼熱の島、食料も水も満足にない過酷な状況で、掘り進められ張り巡らせたこのトンネルの地下陣地こそ、アメリカ軍を迎え撃つ秘策だったのでした。

1945年2月19日、事前の砲爆撃を経て、ついにアメリカ軍が上陸を開始します。その圧倒的な兵力差において5日で終わるだろうと言われた硫黄島の戦いは、死傷者数が日本軍よりアメリカ軍の方が多いという、36日間にも及ぶ歴史的な激戦となりました。

まだ見ぬわが子を胸に抱くために、どんなことをしても生きて帰ると誓った西郷、そして彼らを率いた栗林もまた、軍人である前に夫であり父でした。61年ぶりに届く彼らからの手紙に、そこにしたためられたひとりひとりの素顔から、硫黄島の事実が明かされていきました。

 

 


4.映画『父親たちの星条旗

1)概要

父親たちの星条旗』( Flags of Our Fathers)は、2006年公開のアメリカ映画で、クリント・イーストウッドが監督し、ジェームズ・ブラッドリーとロン・パワーズによるノンフィクション本『硫黄島星条旗』( Flags of Our Fathers)をポール・ハギスらが脚色し、イーストウッドが率いるマルパソ・カンパニー、スティーヴン・スピルバーグが率いるドリームワークスらが制作しました。

太平洋戦争中最大の戦闘とされる硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」のアメリカ側視点の作品で、硫黄島での死闘と戦場(摺鉢山の山頂)に星条旗を打ち立てる有名な写真「硫黄島星条旗」(Raising the Flag on Iwojima)の被写体となった兵士たちのその後などが描かれます。

 

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2)ストーリー

太平洋戦争末期、日本軍の予想以上の抵抗により、アメリカ国民には厭戦感が広がりつつありました。そんな時、硫黄島の最高地、擂鉢山の頂上に星条旗をつきたてる米兵たちを写した一枚の写真は、一気に戦勝気分を盛り上げるものでした。

米国政府は写真に写った6名の兵士のうち、生き残っている3名を帰国させ、彼らに戦費調達のための戦時国債販促キャンペーンの広告塔の役目を負わす事にしました。

 

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ところがこの美談には裏があって、実はこの写真に写った星条旗は1本目ではなかったのです。つまり硫黄島の難所、擂鉢山を死ぬ思いで実際に攻略して、最初の旗を立てたメンバーと、帰国して英雄扱いされた3名とは、微妙に異なっていたのです。これでは、ある種のやらせのようなものとなってしまいました。

この主人公の3人は、戦場で地獄を見、帰国してからも別の意味で地獄を見てしまいました。イーストウッドはこの惨い現実を際立たせるため、硫黄島の戦いの場面を映画史上に残る、『プライベート・ライアン』にも引けを取らない、超ド級のリアル映像で描写しています。

 

 

 

5.クリント・イーストウッド

米国を代表するスターであり映画監督のクリント・イーストウッドは、保守的な思想を持つ人物として広く知られていますが、彼が作る映画は、意外にも思想的に極端に偏ることがなく、公平かつ冷静な視点で物事を見たものが多いようです。

 

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イーストウッドは、当初は日本側から描く『硫黄島からの手紙』は日本人監督に依頼するつもりでした。彼と長年共に仕事をしているチーフカメラマンによれば、彼は、今作品の構想を練る際に「黒澤なら完璧なのに」と漏らしたといったそうです。

しかしながら、前作の『父親たちの星条旗』を撮影中にイーストウッド本人が自らでメガホンを取る意思を固めたそうで、資料を集める際に、日本軍兵士もアメリカ軍兵士と変わらない事がわかったというのがその理由となったそうです。

今回2部作として製作された史実の「硫黄島の戦い」は、私たち日本人も当事者の一方であって、彼のような監督が撮るという事には、一種の安堵感すら感じられます。